フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)E

<<   作成日時 : 2009/08/23 21:29   >>

トラックバック 0 / コメント 0

これからはいよいよ保守派・右派による改憲論を検討してみたい。

保守派・右派は、あれこれ屁理屈を並べながら、改憲を主張している。

改憲を主張するにしても、
その「必要性」について慎重に吟味するべきだ、と著者は言う。

仮に一定の必要性があったとしても、それが許されるとはかぎらないからです。そのことが話題になる以上、「必要性」は多かれ少なかれ常に存在します。ですから、必要性だけで突っ走って大丈夫なのかという、より慎重な判断が求められます。すなわち、改憲によってかえって自分たちの生活が不自由にならないか、今よりも不幸にならないか、安全を求めたつもりで、逆に危険を呼び寄せることはないか、といったことについて、イマジネーションを働かせながら考えることが大切です。(146頁)


改憲派には、この想像力が決定的に欠落しているように思われる。

ただし、改憲によって日本がどうなるか、を考えるだけでは不十分である。

次の世代への影響についても想像する必要があります。……さらに、私たちは日本国内だけで暮らしているわけではないので、その改憲がアジアの他の国々、国際社会全体に及ぼす影響についても考えるべきです。(146−147頁)


改憲派には、この想像力も決定的に欠落しているように思われる。

まず、改憲論者が敵視する日本国憲法の中身をよく読んでみる必要がある。

日本国憲法の「根幹」をよく考える必要がある。

……何が日本国憲法の「幹」や「根」なのか……。それは、立憲主義に基づく「個人の尊重」にほかなりません。(148頁)


これはすでにわたしたちは勉強してきた。

では、改憲論はどういうものか?

……改憲論が、人権を制限して国家権力を拡大する方向なのか、それとも人権を拡大して国家権力を抑制する方向なのか……。(148−149頁)


つまり、立憲主義の根幹は「個人の尊重」であるから、
改憲はこれを広げる方向なのか、それともこれをできるだけ小さくする方向なのか、
そういうことを見極めないといけない。

言うまでもなく、改憲派の主張は「個人の尊重の制限」である。

憲法の掲げた理想がまちがっているなら、正しい方向に改める必要があります。しかし憲法がまちがっているのではなく、理想を実現する努力がたりなかっただけだという可能性は大いにありえます。だとすれば、改めるべきは憲法ではなく、私たちの生き方です。つまり、憲法が「努力するに値しない」理想を掲げているのか、「努力すれば実現可能な理想」を掲げているのかを、見きわめる必要があるのです。(150頁)


なるほど。

よく、情勢が変化したのだから日本国憲法も変えるべきだ、という声を聞く。

だが、現状に合わせて憲法を書き換えるべきであるならば、
そもそも憲法をつくる必要性はどこにもなくなってしまうのではないか?

現実と規範の適度な緊張関係のなかで、現実を少しでも理想に近づける努力を続けていくこと、それが憲法に対する誠実な対応というものです。(150頁)


そのとおりである。

現状に合わせて憲法を書き換えるべきなら、
植民地支配の時代にはこれを正当化する内容に書き換え、
テロの時代にはテロを肯定する内容に書き換え、
人種差別・性差別・障害者差別が広がったらこれを是認する内容に書き換え、
格差社会が深刻化したら「あなたの生活が苦しいのは自己責任だ」と書き込むべきだ、
ということになってしまう。

現実に合わせるために憲法が存在しているのではない、
という点は何度でも強調しておかなければならないだろう。

だって、右派は何度言っても理解しないのだから。

次は、繰り返し右派が主張している「押しつけ憲法論」を取り上げよう。

右派は言う。

「日本国憲法は、アメリカによって押しつけられたものだ」と。

じつは、この「押しつけ憲法論」という考え方は、とっくに破綻しているのである。

たとえば前文に「国民主権」が明記されたのは衆議院での修正点です。それ以外にも、最低限度の生活を保障する「生存権」を規定した25条や、公務員の不法行為に対する国家賠償請求(17条)、刑事補償請求権(40条)などは、マッカーサー草案をもとにした政府原案にはなかったものです。(154頁)


そうだったのか!

右派はまるで日本国憲法がすべてアメリカに押しつけられたかのように言うが、
事実はまったくそうではなかったのだ!

旧体制を維持したいと考えている権力側の人間にとっては、「屈辱」であり「押しつけ」だったのかもしれませんが、旧体制によって戦争に駆り立てられ、人権を抑圧されていた国民の側にとっては、「解放」だったにちがいありません。(155頁)


商品偽装で金儲けをしたい企業経営者にとっては、
商品偽装を禁じる法律は「押しつけ」られたものと思えるだろう。

派遣労働者を使い捨てにして金儲けしたい企業経営者にとっては、
派遣労働の規制は「押しつけ」られたものと感じられるだろう。

だが、それでいいではないか。

それが正しい規制ではないか。

改憲論者たちの幼児なみの感情論にお付き合いする必要はなさそうである。

では、法的に見た場合、日本国憲法の制定過程には問題があったのだろうか?

著者は、ここに2つのポイントがあるという。

日本国憲法の場合、たしかに草案はGHQから渡されました。その点では「介入を受けた」という見方もできなくはありません。しかし日本はそれ以前に、ポツダム宣言を自らの意思で受諾しています。ポツダム宣言は一種の休戦条約で、そのなかに「国民主権の採用」や「基本的人権の確立」といった条件が含まれていた以上、日本としては、それに合致する憲法改正案をつくる義務がありました。(156頁)


なるほど。

つまりポツダム宣言を受諾した時点で、日本は現行憲法が示す価値観を、自ら選び取ったということになります。決して「押しつけられた」わけではありません。敗戦によって、それ以外に選択肢のない立場に追い込まれていたのかもしれませんが、少なくとも法的には「自律性の原則」に反してはいないのです。(156頁)


「押しつけられた」と感じるひとは、
現行憲法の大事にしている「価値」を否定したいだけなのだ。

彼らは「ポツダム宣言」も押しつけられたものだと感じているだろうし、
自らの戦争・不法行為を邪魔するものはすべて「押しつけ」と感じるのだろう。

このように考えてみると、
憲法が押しつけられたかどうかが問題なのではないことが分かる。

戦前の価値観の方がよいと感じるひとには、どんどん押してやればよいのだ。

もう一つのポイントは、現行憲法が、1907年にできた「ハーグ陸戦法規」に反するのではないか、という議論です。ハーグ陸戦法規とは、「他国を占領するときには他国の基本的な法制、制度を尊重すべし」というものです。(156頁)


これについてはどうか?

しかしハーグ陸戦法規とは、そもそも交戦中の占領に適用されるもので、当時の日本はすでに連合国とのあいだで休戦状態に入っており、この場合はハーグ陸戦法規よりも、休戦条約(ポツダム宣言)のほうが優先すると考えられています。(156−157頁)


そもそも「ハーグ陸戦法規」を守っていなかった当の日本が、
これを持ち出して自己弁護するというのは、みっともない話ではないか。

以上の2点が「押しつけ論」の根拠であり、これはどちらも法的には否定されています。……日本国憲法の制定過程に国際法的な問題がないということは、すでに憲法学的に決着がついている話なのです。(157頁)


そうだったのか!

というわけで、もう「押しつけ論」は破綻していると言ってよいわけだ。

草案をマッカーサーの部下がつくったことをもって「押しつけ」という人もいますが、それが最終的に国民の意思で決定されたことはまちがいありません。そもそも国民が全員で草案をつくるのは現実的に不可能であり、草案を誰が作成したかは、憲法の正当性とはほとんど関係がありません。たとえば当初の「松本案」が正式な改正案になっていたら、それを「松本大臣による押しつけ」とはいわなかったでしょう。大事なのは、誰が草案を書いたかではなく、国民の意思を反映した議会で議決されたかどうかです。当時の議会は、自分たちの手で原案に修正を加え、自分たちの意思でこの憲法を可決しました。(157頁)


「自主憲法の制定」を主張するひとたちは、端的に勉強不足だということだ。

彼らに対する著者の次の「皮肉」は、なかなか味がある。

「自主憲法制定」を主張する人たちも、もし現行憲法が9条のような内容を含んでおらず、国防軍を持つことも、集団的自衛権が認められることも明記されていたら、あえて改憲しようとは思わないでしょう。(14頁)


なるほどね。

もしいまの憲法が「国防軍」の保持を認め、集団的自衛権を認めていたら、
そういう内容の憲法をアメリカから「押しつけ」られていたら、
彼らは「自主憲法制定」とはまず言わなかったにちがいない。

いまの憲法が気に入らないから、その方便として「自主憲法」と言っているにすぎない。

ということは、彼らは本当のところは「自主憲法」など主張してはいないのだ。

「自主憲法制定」を主張する右翼の諸君に対して、
この「皮肉」と「批判」は、充分効果的に使える。

また、ある意味で憲法とは、常に「押しつけられるもの」だということもできるでしょう。少なくとも近代憲法は、国民から権力者に向かって「押しつけられるもの」なのです。国家権力に歯止めをかけることが目的なのですから、権力側の人間が「押しつけ憲法」と感じるのは、ごく当たり前のことです。(158頁)


だから、「押しつけられている」と安倍晋三などのチンピラが感じるのは、
むしろ当然のことなのかもしれない。

ということは、安倍晋三などのチンピラ議員が憲法改正を主張すること自体、
言ってはいけない、まちがったことだ、ということなのだ。

だって、彼らには憲法尊重擁護の「義務」が課せられているのだから。

政治家として当然の「義務」が果たせないのか!? 

このボンボン右翼!


と言い返してやればよいのだ。

「押しつけ論」に対しては、遠慮なくどんどん「押しつけ」てやればよい。









テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)E フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる