フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)D

<<   作成日時 : 2009/08/22 12:31   >>

トラックバック 0 / コメント 0

今回は、憲法における「自由」について考えてみたい。

「自由」はどのようなときに制限されるのだろうか?

はじめに「表現の自由」について。

憲法学的には表現の自由は、特に二つの意味で重要だといわれています。その一つが「自己実現の価値」です。(95頁)


わたしがわたしであるために尊重されるべき「自由」。

そしてもう一つは「自己統治の価値」です。民主主義という政治体制では、国民がそれぞれの考えを十分に発表しあって議論を尽くす、すなわち国民が、言論活動によって政治的な意思決定に関わることが不可欠です。(95頁)


「表現の自由」とはいっても、そのことによって誰かを傷つける行為は認められない。

誰かを誹謗中傷するのは「表現の自由」ではない。

だから、右派が人種差別・性差別を公然と表明するのを「表現の自由」と
正当化しようとするのは、笑止千万である。

彼らのような卑劣な連中は、ビシバシ弾圧しなければならない。

ただし、むずかしいのは、報道や出版である。

差別をしようとするものではなくても、
報道や出版が誰かを傷つけることにつながることは、あり得る。

……出版の自由がある程度の制限を受けざるをえないケースがあり、逆に、個人のプライバシー権よりも、出版の自由が優先するケースもあります。いずれにしても、そこで自由や権利を制限しているのは、「公益」や「国益」といった抽象的な価値ではありません。社会や国家のために人権を制限するのではなく、人権を守るために人権を制限するのです。(83頁)


かといって、安易に報道や出版が規制されてしまうのも危険だ。

よく「表現の自由と、プライバシー・名誉権とでは、どちらが大切なのか」と二者択一で問われますが、どちらも憲法上の重要な人権である以上、ケース・バイ・ケースで個別に判断するしかありません。
 一つの判断基準になるのが、その報道や出版に、個人のプライバシーや名誉を侵害してまで守らなければいけない価値があるのか、別の言葉でいえば、それが国民の正当な関心事といえるかどうかということです。「事実の公共性」「目的の公益性」ともいわれますが、もともと、個人を犠牲にして社会公共の利益を守ることを認めないのが、憲法の基本的な考え方です。(98−99頁)


最近、官僚や自衛官の不祥事が明るみに出た際に、
「プライバシーの保護」を理由に詳細を発表しない役所が増えていると言われる。

これなどは、「プライバシー」の濫用と言えるかもしれない。

次に、22条の「職業選択の自由」について見てみよう。

ここには、「公共の福祉に反しない限り」という制約がついている。

どういう意味なのだろうか?

じつは、「職業選択の自由」には「営業の自由」が含まれていて、
これに関わる制約を意味しているのである。

それは営業の自由が、13条の「公共の福祉」とは別の観点からの制約を受けると考えられているからです。すなわち、社会経済的な弱者を救済するために強者を制限するということで、「社会国家的公共の福祉」と呼ばれます。自由競争に負けてしまう弱者を守るために、あえて強者の自由を制限することが認められると解釈されているのです。(100頁)


ちなみに、ここで出てきた13条とは、個人の自由、幸福追求の自由のことである。

営業の自由の制限は、それとは別の理屈で認められる、というのだ。

具体例を出すと分かりやすいと思う。

たとえば、いま全国にシャッター通り商店街が増えている。

地域の商店街が軒並み閉店に追い込まれているのである。

……小売店を守るために大型スーパーの進出を制限するのが、「社会国家的公共の福祉」です。……「自由権」の保障で行き届かないところを「社会権」で補う考え方を、「公共の福祉」というかたちで示したのが、22条1項なのです。国内の農業を保護するために、外国からの農産物の輸入を制限するのも、この一例です。(100頁)


ちなみに、大型店舗の出店を規制していた法律は、すでに撤廃されてしまった。

犯人は誰か?

それはもう言うまでもないだろう。

次は、25条の「生存権」。

これは前にも記したように、「国家による自由」である。

……生活保護を受けている人が部屋にクーラーをつけたところ、「クーラーは贅沢品だから、生活保護費で買ってはいけない」と行政側に指導されたことがありました。……また、子どもを高校に行かせるために学資保険を積み立てていたことが発覚し、「そんな余裕があるのなら」と生活保護費をカットされた人もいます。……
 この場合、いずれも国家が「金は出すが口も出す」といわんばかりに、生活保護費の使い道をこと細かく指示しているのですが、これは25条の理念に反します。(107頁)


ひどい話である。

生存権を保障するという国家の義務を、国家が放棄しているとしか言いようがない。

現在、日本ではこの「生存権」が危機に瀕している。

近いうちにまたこの問題を取り上げるつもりである。

さて、これまで見てきたように、本書では、
日本国憲法に書かれているそれぞれの条文をていねいに解説してくれている。

実際にはすべての条文について説明があるのだが、
ここではそのうちの一部だけ取り上げてきたことをお断りしておく。

次に、最高裁の「判例」について取り上げるとしよう。

憲法は国の最高法規であるが、
その運用に当たって、統一的な解釈が必要になってくる。

裁判所ごとに判断がころころと変わってしまっては大変だ。

そこで重要な役割を果たすのが、最高裁の「判例」だ。

日本は、判例が法としての拘束力をもつ判例法主義をとりませんので、判例はあくまでその裁判にかぎっての判断です。しかし最高裁の判例は、その後の裁判に大きな影響を及ぼし、判例変更については慎重な態度がとられます。そのため、最高裁の判例は、事実上、憲法の「もう一つの条文」といわれるほどです。
 たとえば最高裁の判例には、憲法で規定された「人権」について、「日本国民のみを対象としているものを除き、外国人にも原則として保障は及ぶ」と明示したものがあります。(137−138頁)


人権は、日本国民にのみ保障されるべきものではあるまい。

もし日本人にのみ適用されるなら、それは「人権」とは呼ばない。

「特権」と呼ばれるべきものである。

同様の判例としては、「外国人に法律によって地方参政権を与えることを憲法は禁止していない」というものもあります。(139頁)


在日外国人に地方参政権を認めることに強く反対する連中がいるが、
最高裁も認めているように、在日外国人の地方参政権は当然認められるべきだろう。

「新しい人権」を認めた判例もあります。「プライバシー権」「肖像権」といった人権は憲法に明記されていませんが、判例が認めた……。(139頁)


これについては、すでに説明した。

憲法で不明確な部分を解釈によって明確化していく以外にも、最高裁の判例には重要な役割があります。「多数派」や「強者」から人権侵害を受けた「少数派」や「弱者」を救済することです。(139頁)


次のケースは、興味深いケースである。

「エホバの証人」という宗教の信者だった高等専門学校の生徒が、「絶対的平和主義」という信仰上の理由から、体育の剣道の授業を拒否したところ、最終的には退学になってしまった事件です。その生徒は、実技をやらない代わりにレポートを書くなり何なりすると申し出て、授業でも準備体操などはやっていました。ただ、実技だけは拒否したために、単位がもらえず、2年続けて留年した結果、退学処分となりました。そこで生徒側が退学処分の取り消しを求めて裁判を起こしたのですが、これについて最高裁は、信教の自由に反して、代替手段を講ずることもなく退学に追い込んだ学校側の対応は違法である、という判断を示しています。(140頁)


次のようなケースもある。

「愛媛玉串訴訟」と呼ばれる裁判では、地方自治体が宗教的な組織に公費を出すのは、政教分離の原則に反しているので違憲だということを、最高裁が明確にしました。(140頁)


油断していると、どんどん自治体も国家も特定の宗教と癒着する。

最高裁はこうした問題をチェックする大切な役割を果たしている。

また、柳美里(ゆうみり)さんの『石に泳ぐ魚』という小説をめぐる裁判では、モデルにされた女性のプライバシー権を守るために、出版の差し止めと損害賠償を認める判決を出し、出版の自由や表現の自由は、個人の生活を犠牲にしてまで認められるべきではない、という判断を示しています。(140頁)


次のケースは、悩ましいジレンマである。

弱者救済という意味では、予防接種事故に関する裁判も有名です。伝染病をなくすためには、すべての子どもたちに強制的に予防接種をする必要がありますが、なかには統計的に何万分の1かの確率で、必ず重大な副作用が生じてしまう予防接種があります。(140頁)


少数派を守るために予防接種をなくしてしまうと、
伝染病が蔓延してしまう可能性が出てきてしまう。

かといって、全員に強制的に予防接種を行なうと、
少数者が犠牲になってしまう。

犠牲になってしまった被害者・遺族は、国の責任を追及する。

だが、予防接種の強制は、国の「違法行為」とまでは言いにくい。

……被害者や遺族たちは、何度も国の責任を追及する裁判を起こしながら、負け続けていました。(141頁)


この場合は、別のかたちで被害者の救済が行なわれるべきだ、と著者は言う。

実際、明らかな違法行為だとは言えなくても、
国側に過失があると推定される場合は、国家賠償が認められる、
という方向で裁判所の判断が示されるようになってきたという。

弱者や少数派の人権を守るのも、最高裁の大切な役割である。

最高裁がそうした役割をきちんと果たしているのかどうかを監視するのは、
わたしたち有権者の責務である。

最高裁裁判官の国民審査に参加していない有権者は、
その責務を果たしていないということになる。








テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)D フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる