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zoom RSS 伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)A

<<   作成日時 : 2009/08/19 09:19   >>

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前回確認できたのは、次のことだった。

憲法というのは国家権力から個人の権利を守るものだ。


これである。

憲法の目的は、個人の権利を守ること。

国家権力が望む生き方をひとびとに強制するための道具ではない。

では、憲法に書かれている「統治機構」はどう理解すればよいのだろうか?

憲法の目的は、あくまでも個人の権利を尊重して国家権力から守ることにありますから、もっとも重要なのは「人権」について規定した第3章です。「統治機構」のあり方を定めた第4章から第8章までの条文は、人権保障という「目的」を達成するための「手段」を示したものにすぎません。「人権と統治」は、「目的と手段」の関係にあるのです。(64頁)


なるほどね。

統治機構の規定は、国家権力に対して「こうありなさい」と命令したもので、
そのあり方を通じて「人権」を守りなさい、と命じるものだったのだ。

では、ここからやや詳しく憲法の勉強をしていくことにしよう。

憲法には3つの特徴があると言われている。

@ 「自由の基礎法」

A 「制限規範性」

B 「最高法規性」


順番に説明を見てみよう。

@はどのような意味なのだろうか?

一番めの「自由の基礎法」とは、自由こそが立憲主義の根本的な目的であり、最大の価値だということです。(65頁)


なるほど。

ではAはどのような意味なのだろうか?

二番めの特徴である「制限規範性」とは、この憲法が「権力を制限する法」であるということです。(65頁)


なるほど、なるほど。

ではBはどのような意味なのだろうか?

また、国民の自由を守るために国家権力を制限する法であることは、憲法がすべての国家権力よりも上位にあることを意味します。これが三番めの「最高法規性」です。(65頁)


なるほど。

だから、憲法の内容に矛盾するような法律は作ってはいけないわけだ。

次に、「法」について見てみよう。

「法」には大きくいって2つの考え方がある。

……アメリカやイギリスなどいわゆる「英米法」の法体系の国と、フランスやドイツなど「大陸法」の法体系の国……、英米法では「法の支配」と呼ばれ、大陸法では「法治主義」と呼ばれています。
「法の支配」の特徴は、憲法によって、国会や内閣などあらゆる国家権力を制限して人権を保障するという点にあります。」(67頁)


では、もうひとつの「法治主義」とはどのようなものなのか?

これに対して「法治主義」では、議会がつくった法律がもっとも重視されます。これは特に戦前のフランスやドイツ、日本で支配的だった考え方です。およそ議会がつくった法律でさえすれば、その内容は問わないので、「形式的法治主義」とも呼ばれます。(68頁)


日本は「形式的法治主義」だったことから、戦前・戦中は大失敗をしたわけだ。

なぜなら、法治主義は、
極端にいえば「悪法もまた法である」という考え方につながるからだ。

改憲派には、まだこの古い考え方から抜けられないひとたちが多いのではないか?

 ただし、第二次世界大戦後は、ナチズムへの反省などから、ドイツやフランスでも「不当な内容の法律は憲法に照らして排除されなければならない」という考え方が主流になり、「法の支配」の考え方にかなり接近しています(これを実質的法治主義と呼びます)。」(68−69頁)


「悪法も法である」という「法治主義」から「法の支配」へ。

わたしもその方がよいと思う。

右派は、かわいそうなことに、こうした基礎的なことを理解していない。

ただし、注意しなければならないのは、
憲法の目的は人権を守ることだけではない、ということだ。

つまり、国民主権という政治体制を手段として、人権の尊重と平和主義を実現することが、この憲法を制定する目的だと宣言しています。(70頁)


国家権力というのは、自在にその権力をふるいたくなるものだ。

自由自在に権力をふるって、気に食わないひとびとを弾圧したくなるものだ。

実際、権力はそうしてきたという歴史がある。

国家権力は、戦争をしたがる性質をもっている。

国家権力は危険な性質を持っている。

だから、憲法は人権と平和を守るために、国家権力を縛るのである。

憲法は、人権と平和を守る。

日本国憲法の前文を見てみよう。

「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という一文は、この前文のなかでも私が一番好きなフレーズです。一国の憲法でありながら、全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有することを確認する。こんな憲法は、ほかに見たことがありません。……したがって、この憲法が、自分の国さえ平和なら他国はどうでもいいという、いわゆる「一国平和主義」とはまったく逆の考え方を採用していることは明らかです。私はこれを、「積極的非暴力平和主義」と呼んでいます。(72−73頁)


軍事力を強化すれば自国の安全が保障されるという考え方があるが、
これとは相容れないのが日本国憲法の精神なのである。

日本が軍事力を強化して周辺各国に脅威を与えることは、
日本国憲法の精神に反する行為なのである。

ところで、日本国憲法を読んでみて、こんな疑問を持ったことはないだろうか?

人権と平和を守るのが憲法だということは分かった。

では、どうして人権の規定が第3章に置かれているのだろうか?

どうして人権規定の前の第1章に天皇の規定が置かれているのだろうか?


そう感じたひともいるだろう。

これについては、著者は次のように答えている。

それは「明治憲法時代の反省から」だったのだ、と。

そこで新しい憲法では、第1章で天皇の権力に歯止めをかけ、続く第2章で軍事力に歯止めをかけました。この二つの前提がそろったところで、はじめて国民の人権が保障される、という意味がこめられているのです。ですから、人権規定が後ろのほうにあるのは、それを軽視したからではなく、むしろその重要性を強く意識した結果といえます。(74頁)


なるほど。

日本国憲法を読むときには、
前のひどい憲法の、どこがどのように反省されたのかを考えて読もう、ということだ。

さて、多くの日本人が正しく理解していない概念のひとつに、「権利」があると思う。

「権利」という言葉は、まだ正しく理解されていないように思われる。

一般市民のなかにも、
「あなたは自分の権利ばかり主張して、ちっとも義務を果たさない」
という言い方をするひとがいるように、
「権利」をまるで「エゴイズム」であるかのように理解しているひとがいる。

実際わたしも、小さいころからこのようなセリフを何人もの大人たちから聞かされてきた。

しかし、端的に言って、こういう大人は「権利」をまったく理解していないのである。

「権利」とはどういうものなのだろうか?

かつて思想家の西周というひとがいた。

彼は「科学」「技術」「芸術」「哲学」「主観」「客観」など多くの訳語を考案したことで知られ、
じつは「権利」という新しい言葉もその一つだった。

ただし正確にいうと、彼が考案した「right」の訳語は「権」でした。(77頁)


「権利」と「権理」。

だいぶイメージが変わってくる。

いまは「利」という文字を使っているため、「利益」「利己主義」といった連想が働きます。そのため「権利を主張する」というと、「自分かって」「わがまま」などのイメージがつきまといますが、本当はそうではありません。権利とは「正しいこと」ですから、それが「人権」という言葉になれば、「人として正しいこと」を意味します。(78頁)


そうだったのか。

言葉の持つイメージというのは、怖いものである。

そういえば、「脳死」という言葉も、「死」という文字が入っているから、
多くのひとびとは「脳死」は「ひとの死」だと思い込んでしまうのだった。

では、「人権」とはどのようなものなのか?

人権の内容に入っていこうと思う。

「人権」概念は、大まかに言って3つに分類することができる。

@ 「自由権」

A 「参政権」

B 「社会権」

である。

@は、別名「国家からの自由」とも言われるもので、
さらに精神的自由権、経済的自由権、人身の自由の3つに分類することができる。

Aは、「国家への自由」とも呼ばれるものである。

政治に参加する自由であり、民主主義である。

ただ、民主主義は、それ自体が目的なのではありません。民主主義は、あくまでも「国家からの自由」を得るための手段です。自由を守るために、民主主義がある。(81頁)


何のために民主主義があるのかを考えないといけない、ということだ。

多数決で決めたことなら何でも通る、というわけではない。

これも、長期にわたって政権を握っていた自民党が理解していない点であろう。

彼らがこれまでいったい何度強行採決を行なってきたかを想起しよう。

では、Bはどのような人権なのだろうか?

……さまざまな事情により、自ら幸福をつかみ取れるだけの環境にない弱者は、人間らしい生活が営めなくなる恐れがあります。それを放置していたのでは、その社会は個人を尊重していることになりません。
 そこで、社会的な弱者や経済的な弱者が人間らしい生活を送れるよう、国家に積極的な配慮を求める権利が必要になります。それが「社会権」と呼ばれる人権です。……たとえば病気で働けない人が生活保護を求めたり、誰もが均等に教育を受けられる制度を整備するよう求めたりすること(81頁)


したがってこれは「国家による自由」と呼ばれることがある。

社会保障を充実させること、セーフティネットを拡充すること、
こうしたこともわたしたちが国家権力に命じている大事なことなのである。

とはいえ、近代のはじめから「人権」が上記の3つの内容を持っていたわけではない。

ひとびとの努力・闘争を通じて獲得されていったのだ。

こうして人類の歴史は、「人権」の内容を豊かにしてきたのだった。

ここでも重要なことを心に刻んでおきたい。

それは、右派は人権概念を豊かにすることに関して、
何の貢献もしてこなかった、という事実である。

このことはとても大事なことである。

現在の右派は、表現の自由や基本的人権があって当たり前だと思っているが、
といっても、彼らは自分たちにだけそれらはあって、
他人には認めないという、どうしようもない自己中心的な連中なのだが、
そんな彼らだって自分に人権があるのは当然だと思っているだろう。

しかし、その「人権」は誰のお蔭で保障されているのか?

そのことを、右派はもうちょっとまじめに考えてみた方がよいだろう。

右派も、日常生活においては、ひとりの労働者であろう。

その労働者としての権利が保障されているのは、誰のお蔭か?

じっくりと考えてみた方がよい。

さて、「権利」「人権」は、「利己主義」「エゴイズム」ではないということは分かった。

では、憲法に書かれている「公共の福祉」をどう考えればよいのだろうか?

しばしば憲法には「人権」を制限するものとして「公共の福祉」が登場する。

基本的に各人に「権利」は認めるが、
それはあくまでも「公共の福祉」に反しないかぎりである、と。

じつは、この「公共の福祉」という概念も、
多くの日本人が正しく理解していないもののひとつだったのだ。

伊藤先生の説明を聞いてみよう。

「公共の福祉」という言葉を聞くと、公益とか国益といった、一人ひとりの国民とは直接関係のない、ある意味で抽象的な社会的利益が存在するようなイメージを抱く人が少なくないでしょう。でも、それは違います。もしもそのような「公共の福祉」によって人権が制限されるとしたら、人権よりも上位の価値があることを認めることになり、「個人の尊重」を最高の価値としている憲法の理念と合致しません。


ふむ、たしかにそうだ。

実際多くの日本人はそのように理解していると思う。

では、正しい「公共の福祉」とはどのようなものなのだろうか?

「個人の尊重」という憲法の理念にしたがうなら、ある個人の人権を制限できるものは「別の個人の人権」しかありえません。……すなわち、「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」……。(82−83頁)


なるほど。

「公共の福祉」というのは、「公の秩序」ではないのだ。

まして「国益」や「公益」といったものでもないのだ。

とても大事なポイントなので、よく覚えておきたい。

というのも、自民党の改憲論は、
「公共の福祉」概念を都合よく変えようともしているからである。

ぜひ自民党の改憲案を読んでみていただきたい。

この「公共の福祉」の部分が、さり気なく変更されているから。

さり気なく「国家重視/個人軽視」の方向で書き換えられているから。












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