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zoom RSS 伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)@

<<   作成日時 : 2009/08/18 08:57   >>

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これ以上分かりやすい憲法入門はない、というくらい分かりやすい。

初心者には超超超おすすめ。

ずっと前にもこの本を紹介したと思うのだが、
内容にはほとんど触れなかったと思うので、
今回は本文を引用しながら内容を紹介していきたい。

日本では、「憲法が何のためにあるのか」、「憲法とは何なのか」、
をまったく知らないままに改憲を主張しているひとたちが多い。

知らないくせに、憲法「改正」を主張している。

はなはだ困ったものである。

以前このブログで、改憲派の主張は支離滅裂であることを書いたが、
そのときにコメントしてきた改憲派のひとも、
まともに反論することができず、たじたじになって退散したのだった。

改憲派の不誠実さには、呆れるほかない。

改憲派がおのれの無知を恥じないのは、不誠実な態度である。

不誠実な人間にはなりたくないので、わたしたちはきちんと「憲法」について学ぼう。

ただし、わたし自身は、ごりごりの護憲派ではない。


 ***********************************


それでは、改憲派の間違った思い込みを、ひとつずつ叩き壊していくために、
著者であり司法試験界のカリスマ講師である伊藤真先生にうかがってみよう。

よく改憲派はこう言う。

「日本国憲法は、国民の権利ばかり書いていて、国民の義務を書いていない」

「だから利己的な国民が生まれてしまうのだ」


自民党議員などがよくこのように言うのだが、
自分たちの不勉強を棚に上げたずいぶんと無茶苦茶なご理解(?)である。

では、伊藤先生、憲法とはどのようなものなのだろうか?

……憲法とは「国民を縛るものではなく、国家権力の行使に歯止めをかけるものである」という近代憲法の大原則……。(6頁)


なるほどね。

……憲法とはその国の国民を縛るためにつくれられるものではありません。その国民を統治する国家権力が暴走しないよう、歯止めをかけるのが憲法……。(15頁)


ということは、憲法に国民の「権利」ばかりが書いてあるのは、当然なのである。

「国民にはこういう権利があるから、それを守りなさいよ」
と国家権力に対して命じているのが、憲法にほかならないからだ。

ということは、憲法に国民の義務を書き込んで、
「国民を縛るための道具」にしようとする改憲派は、
この近代憲法の大原則をふみにじるひとたちだということになる。

では、そもそも立憲主義とは何なのだろうか?

すなわち、国家権力を制限して国民の自由と権利を保障するための法のことをいいます。そして、このように国家権力を法的に制限した憲法に基づいて政治を行うことを、「立憲主義」といいます。この「立憲主義」こそが、日本国憲法も含めた、すべての近代憲法の本質と考えられています。」(35頁)


分かったか、バカ右翼ども。

何より国家権力を縛るものが、憲法なのである。

国家権力を縛るために、憲法は存在しているのである。

わたしたちの社会は、実態はどうであるかは別にして、
民主主義を原則にして運営されている。

しかし、民主主義はときに暴走することがある。

多数派意見がつねに正しいわけではない。

ヒトラーのナチスが、議会多数派を獲得して、
合法的に政権についたときのことを挙げるまでもなく、
多数派は暴走する可能性を秘めている。

すなわち「国民がつくった憲法によって、国民の多数意見の暴走に歯止めをかける」のです。(43頁)


そのために憲法がある。

多数意見に歯止めをかけるとは、つまり、近代憲法は「民主主義」に歯止めをかける存在だということです。(43−44頁)


だから、憲法に国家権力が守るべき「権利」を中心に記述しているのは、
きわめて当たり前のことなのだ。

「国家権力が守らなければならないこと」が書かれているのが、憲法だからだ。

したがって、憲法に国民の義務を書き込もうとするのは、
立憲主義に対する無知以外の何ものでもない、ということである。

……日本国憲法は一方で、立憲主義という価値観に根ざした憲法です。その目的は「個人の尊重」ということにあるので、民主主義が少数派の自由や権利を損なう方向に働くときは……、立憲主義が民主主義に優先しなければなりません。(44頁)


では、この近代憲法の本質である「個人の尊重」とはどういうことなのだろうか?

 私は、そこには二つの意味があると考えます。一つは「人はみな同じ」――国民が「みんな同じ個人」として尊重されるべきだということ、もう一つは「人はみな違う」――国民が「みんなとは違う個人」として尊重されなければいけないということです。一見矛盾しているように感じるかもしれませんが、人間は誰しも「みんなと同じでありたい」という公平さを求める気持ちと、「他人とは違う自分らしい生き方をしたい」という自己実現の欲求を持っています。したがって、この二つを共に尊重しなければ、個人を尊重したことにはなりません。(54頁)


分かりやすい説明だ。

「個人の尊厳」とは、個人主義にほかならない。

「個人主義は利己主義だ」と言うひとがいたら、
そのひとは「個人主義」をまるで理解していないだけの話である。

独立した個人の自由に根本的な価値を置くとは、何を幸福と感じるかは一人ひとりの自由であり、何が幸せかを他人に決めてもらう必要はないということです。そこで大きな意味を持つのが、「人はみな違う」――それぞれの国民が「みんなとは違う個人」として尊重されなければならない、という考え方です。(57頁)


あるひとのふるまいを見て、「愚か」に見える行為があるだろう。

煙草を吸わないひとから見れば、煙草を吸うのは愚かに見える。

酒を飲まないひとから見れば、飲酒は愚かな行為に見える。

だが、甘いものに目がないというひとも、別のひとから見れば、愚かかもしれない。

洋服ばかり買い込んでストレスを解消したつもりになっているひとだって、
あるひとから見れば「愚か」かもしれない。

ブランドものに目がない多くの日本人の行為は、世界から見れば「愚の骨頂」だ。

テレビばかり見ているひとも、別のひとから見れば、愚かかもしれない。

「ノミニケーション」と称して毎晩居酒屋に繰り出すサラリーマンの姿だって、
あるひとたちから見れば「愚か」である。

本を読まないひとは、わたしから見れば「愚か」そのものである。

だからといって、どういう生き方をするか、何が善き生き方なのか、
わたしたちはどう生きるべきなのか、を国家が決めるのはよくないだろう。

ましてや、国家が理想とするひとつの価値観を国民に強制するのはよくないだろう。

少なくとも近代憲法のなかには、文化や道徳的な価値観を表明する余地はない。近代憲法は、個人を尊重し、多様な価値観を守ることを目的にしていますから、文化的な価値や道徳観を一つに絞り込むことはできないのです。(61頁)


だから、日本文化であれ特定の道徳観であれ、
それらを教育を通じて強制することは許されないのである。

「国を愛するかどうか、伝統的な日本人らしい道徳心を持って生きるかどうかは、憲法ではなく、それぞれの個人が決めることです。」(61−62頁)


いくら「個人主義」が気に入らなくても、
いくら憲法に「家族」「伝統」「文化」「国家」の重要性を書き込みたくても、
「個人の尊厳」という近代憲法の大原則を譲るわけにはいかない。

また、政府は国民の多数派で構成されますから、憲法は「多数派に歯止めをかけて少数派の権利を守る」ものだともいえます。(46頁)


ということは、改憲派の主張する「新しい憲法」が、
本当に少数派の権利を守るものなのかを注意深く検討する必要がある。

結論をいえば、自民党の改憲案は、少数派の権利を踏みにじるものだろう。

国民が憲法を守るのではなく、憲法が国民を守るのです。(50頁)


したがって、保守系議員たちの言う改憲論を真に受けて、
「なるほど、改憲するべきだ」と思ってしまった国民は、哀れである。








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