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zoom RSS 立岩真也『良い死』(筑摩書房)A

<<   作成日時 : 2009/07/03 08:34   >>

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現在、医の倫理の基本は、「患者の自己決定権の尊重」である。

これまでのパターナリズムは批判されて、
患者の意思を尊重し、インフォームド・コンセントが大切だと考えられている。

安楽死や尊厳死を肯定するのも、この「自己決定」という考え方である。

……安楽死というものがオランダである種の合法化がなされてきたり、アメリカでもオレゴン州だけに限られているけれど合法化されてきている。そこで、何が人を死に向かわせているのか。かつてはそれはガンなどによる耐え難い苦痛であったりしたのでしょう。しかし近年は技術の進歩によってある程度痛みそのものは押さえられるようになってきた。その時に何が死に向かわせるのか。オランダで、カナダで、アメリカで、いわゆる積極的安楽死を望む人たちの姿がテレビ番組の映像に映し出されます。その中にはALSの患者さんもいます。彼らの言葉や姿からわかることがあります。西欧で何百年か前に始まった近代社会は、自らが自らの意志によって自らの周りのものをどれだけ自由に動かしコントロールできるかに非常に重きを置いた社会で、そういった社会の中において、次第次第に世界に対して自分のコントロール能力というものが衰えていくことが、非常に大きな否定的な意味をもってしまっている。単にできなくなるという不便さとかを超えた絶望として彼らにのし掛かってくる。あるいは先取りされた絶望、やがてそうなるのではないかという絶望としてのし掛かってくる。それが積極的な安楽死を呼び込んでしまっている現実があるように私には思えるのです。
 自分の体をどうして欲しい、ああして欲しいということを他人に伝えて、その通りにやってもらうような自己決定は今後とも、当然のこととして追求されていかなければならないのと同時に、本来ならば自分でコントロールできるはずのものができなくなったら人間としての敗北であるというような意味での自己決定主義といいますか自立信仰みたいなものが、逆に障害がある人たちの生き方を狭めてしまう現実があるように思われます。(31頁)


ナチスは、障害者を安楽死させた。

これは誰もが批判するだろう。

今日、安楽死や尊厳死を合法化させようとするひとたちは、
だから、「患者の意思」を尊重して「尊厳死」の権利も認めるべきだ、と主張する。

勝手にひとの生命を奪うのとは違う、と主張する。

しかも、自殺願望のひとまで正当化するつもりはないという。

あくまで「末期の患者」、「死が間近に迫っているひと」だけだという。

だが、それなら問題はないのか?

そうではない。

実際、安楽死や尊厳死の合法化に反対するひとたちはいる。

 反対している人の言っていることは単純なことであり、そしてもっともなことだと思う。末期の状態、本当に死に近い人が対象だというなら急ぐことはない。意識があり、苦痛があるなら、苦痛をなるべく減らしたらよい。そうして周囲の者たちは亡くなるまで待てばよい。他方、末期の状態にない人をも含めるのであれば、まだ人生があるのだから、急ぐことはない。死にたくない人も死んでしまうことがあるからよくない。また、意識のない――長くそうした状態にあると「植物状態」と呼ばれたりすることがあるが「遷延性意識障害」の方がまだよい名とされる――人自身には死にたいという意識もなく、死ぬことの利益もないのだから、本人が苦しいからという理由はなくなっている。そして、その状態から回復する人もいることもあげられる。実際そうした事実がある。(46−47頁)


まさにそのとおりだ。

現在、ペイン・コントロールが相当に進んでおり、
ほとんどの苦痛は取り除くことができると言われている。

それなら、苦痛のある患者は、その苦痛を取り除けばよい。

意識のない患者なら、苦痛を感じていないので、わざわざ死なせる必要はない。

ちなみに、以前わたしも書いたことだが、
「植物状態」という言い方は不適切なので、「遷延性意識障害」と言おう。

さて、尊厳死の問題を考えるとき、どうしても触れずにはいられない人物がいる。

それは、太田典礼だ。

彼は、日本尊厳死協会(その前身は1976年設立の日本安楽死協会、83年に改称)
の創始者であり、かつての「優生保護法」の制定に深く関わった人物である。(47頁参照)

日本尊厳死協会の会員数は、今では12万人を越えているという。

※詳細はWEBサイト「日本尊厳死協会」をご覧いただきたい。興味深いことが書かれている。

ちなみに、尊厳死を積極的にすすめようとする組織に、
「法制化を考える世話人会」や「尊厳死を考える議員連盟」がある。

この組織の会長は、衆議院議員・中山太郎だ。

彼は「臓器移植法改正推進議員連盟」の代表的なメンバーで、
臓器移植法改正案A案の提出者のひとりである。

どういうひとが尊厳死を推進し、臓器移植を推進しているのかを、
わたしたちはしっかりと覚えておいた方がよい。

さて、この太田典礼というひとは、どのような思想の持主なのか?

彼は新聞のインタビューでかつて次のように発言した。

「ナチスではないが、どうも『価値なき生命』というのはあるような気がする。[…]私としてははっきりした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ[…]自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り『生きている』のではなく『生かされている』状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」(『毎日新聞』1974年3月15日……)。(48頁)


どうだろうか?

彼はハッキリと「価値なき生命」と言っている。

「価値なき生命」は「社会の負担」であると明確に述べている。

そして次の発言も十分に怖ろしいものである。

「命(植物状態の人間の)を人間とみるかどうか。[…]弱者で社会が成り立つか。家族の反社会的な心ですよ。人間としての自覚が不足している。」(太田、当時日本安楽死協会理事長)「不要の生命を抹殺するってことは、社会的不要の生命を抹殺ってことはいいんじゃないの。それとね、あのナチスのやった虐殺とね、区別しなければ」(和田敏明、当時協会理事)(1978年11月11日、TBSテレビの土曜ドキュメント「ジレンマ」での発言……)(77頁)


「不要の生命を抹殺する」。

まさしくこれこそナチス並みの「優生思想」ではないか。

尊厳死を合法化させたがっているひとびとが、
上記のような危険な「生命観」を持っていることは知っておくべきだ。

前回の記事でも宮台を批判するかたちで書いたことだが、
尊厳死を認めるべきだというひとたちは「自然な死」という観念に囚われている。

「自然の摂理に身を委ねる」

「人生の終末は自分で決める」

そう言う。

「自然な死」というイメージ。

だが他方、例えばウィルスの侵襲と増殖は自然なことであり、発熱は様々な事態に対する自然の反応でもある。また細胞の劣化その他についてもそう言えるだろう。衰えること、死ぬことは、必然の事実であるという意味で、自然のことである。こうして病は、反自然であるとも言えるとともに、自然の過程であるとは言える。(136頁)


それに加えて、病気やケガに対して医学的治療を行なうことも、
わたしたちの生活において「自然」でもあるし、「人工」でもある。

「自然な死」などという曖昧なイメージで尊厳死・安楽死を肯定するのは危険だ。

「健常者」だけが「自然な生」なのではない。

「手つかずの自然」が地球上に存在していないのと同じように、
「自然な死」も「自然な生」もどこかにあると思い込むのはあまりに危険だ。

尊厳死・安楽死の対象とされようとしている
ALS(筋萎縮性側索硬化症)のひとたちの声を聞いてみよう。

「見るものといえば、病室の天井だけという状況に置かれつづける人がいる。そして、呼吸器を付けると天井を見たままずっと過ごすことになる(過ごすことにしかならない)から人工呼吸器を付ける付けないの決断はよく考えた上でした方がよい、と言う医師もいるし、学界のガイドラインにもそんなことが書いてある。もっと率直な人の中には、呼吸器を付けて生きていてよいことはない(「低いQOL」しか得られない)、だから、付けない方がよいだろう(死んだ方がよいだろう)と言う人もいる。
 ……
 西尾健弥は、日本ALS協会の事務局長をつとめた松岡幸雄に、生きていれば「春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか」と言われたという。……
 土屋とおる。山梨県立中央病院。「病室で富士が見えるようになったのも、看護婦さんのはからいであった。長いこと天井ばかり見ていたのでは、気が滅入ってしまうからと寝台の位置を変えてくれたら、全く別の世界がひらけてきた。そこには富士が見えていた。」
 ……
 知本茂治。1988年7月、鹿児島大学医学部付属病院。「4年半ぶりにお茶が喉を通ったとき、いま使っているこのパソコンを始めて使ったときに覚えた興奮と同じ興奮を覚えました。それは『生活が広がる』という予感だったのです。」
 1992年8月。「スズムシたちもじっとして動かない昼過ぎの一番暑いとき、病室に来た看護婦の赤松さんが、涼しげなガラスのコップを用意し、クーラーのスイッチを切り、お盆だからという変な、それでも私にしてみればうれしい理由によってビールを飲ませてくれました。[…]コップのビールはガラスの注射器で私の口の中に注がれ、食道に冷たい感触を伝えながら元気な泡と一緒に胃袋に入っていきました。[…]毎日お盆であればいいのにとも思いました。」(202−203頁)


彼らに対して、わたしたちは「不自然な生」を生きているなどと言えるのか?

言えるはずもなかろう。

ひとのことはともかく、自分は尊厳死を望む、というひともいる。

そういうひとは、恐らく次のように考える。

「ひとさまに迷惑をかけてまで生きたくはない」と。

日本ではとにかく「ひとに迷惑をかけるな」という無内容なモラルが跋扈している。

例えば私の祖母であった人がそうであったかもしれないと思うのだが、ただ人さまに迷惑をかけたくはないと言う人たちがいる。(307頁)


これをわたしたちは「美徳」として見なしてよいのだろうか?

いや、ここには矛盾がある、と著者は指摘する。

他人のためになることをすることはよいことであり、他人のためにならないことをしないことはよいことである。……そして、自己犠牲自体も肯定されてよいものとしてあるだろう。それは自分よりも他人を大切にすることであって、そのこと自体はよいことではある。しかし、ここで、その申し出をそのままに受け入れたらどうだろう。それは結局、自己犠牲を肯定する価値を否定することにもなってしまうのではないか。(307−308頁)


どういうことか?

その人にとっての他人たち(自分たち)のためになることをさせることによって、少なくともそれを止めないことによって、(その人にとっての他人である)自分たちが得をするということである。それはつまり、他人の自己犠牲を求める(止めない)ことによって、その他人に不利益を生じさせ自分たちが利益を得ることであって、それは結局他人を利用しているということであり、自己犠牲を肯定する価値を否定しているということである。(308頁)


あるひとたちに自己犠牲を求めることで、結局は誰かが得をしようとしているわけだ。

これは戦争に国民を動員するときの論理と似ている。

子どもたちや青年たちに国家・国民のための犠牲を教えるのは、もう戦場に出ることのない教師や政治家ではないかと言われるときに示されているのはこのことである。(308頁)


これに関連して、ある医師によって書かれた文章を著者は紹介する。

 「10年前、父が90歳で死んでから、母は希死願望をもつようになりました。『何もできなくなった。生きていてもしかたがない』というのです。とりわけ身体の衰えが目立ちはじめた80代後半からは、私の顔を見ると『なんか、医者やろ、楽に死ねる方法、教えて』と訴え、ついには『殺して』があいさつになります。
 職業柄『死にたい』と訴える人とのおつきあいは少なくありません。しかし、親子となると、つい口論になります。[…]『自分より弱い人のことを、自分以上に大切にしなさい』が口ぐせで、私は小さい頃から毎日念仏のように聞かされて育ちました。私が医者になったのはこの口ぐせの影響が大です。
 その母から、『殺して』と頼まれると、むなしくて、つい本気で怒りをぶつけてしまいます。[…]
 気持ちがわからないのではありません。その生いたちから気位だけで人生を支えてきた母のこと。人にしてあげることは大好きでも、されることにはがまんできない。それが、自分がどんどん無力になって、一方的にされる立場になっていく。金井さんをはじめ、障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。
 『できなくなったら終わり』『人のお世話になりたくない』。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを1人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました。」
 文中の金井は金井康治。脳性麻痺の人で、彼が普通学級に就学できるための運動があった。(336−337頁)


ひとに迷惑をかけてまで生きる必要はない、と考えさせる社会がよいのか?

それとも、ひとに迷惑をかけることがあっても、
あなたは生きていてよいのだ、生きていてほしい、と言える社会がよいのか?

わたしには答えはハッキリしているように思うのだが。

少なくとも安楽死・尊厳死をとくに許容する法律を作る必要はない。(339頁)


まったくその必要はない。

そして、この(延命によって)「無駄な治療」と「無駄な延命」(のための治療)とは異なる。延命が無駄だと言いたいのであれば、その延命がどのように無駄なのかを言ってもらわなければならない。(341頁)


どのように「無駄」なのかを言おうとすれば、
おそらく「優生思想」にたどり着かざるを得ないだろう。

安楽死・尊厳死は末期の状態に対する対応だとされる。しかしこれは不思議である。本当に末期であれば、つまり死が間近に迫っているという普通の意味での末期であれば、急ぐ必要はない。亡くなるまでの時間、きちんと待てばよいし、対応すればよい。末期で意識があって苦痛があるなら、そしてその苦痛を減らせるなら、苦痛を減らせばよい。他方、末期でないのなら、まだ人生があるのだから、急いではいけない。これ以外の意味で末期という言葉を使うのは――実際には使われてしまうことがあるのだが――言葉の用法の不当な拡張であり、無用の混乱と有害な結果をもたらす。(341−342頁)


この世界は、元気な健常者だけで成り立っているのではない。

それを否定するなら、全体主義を肯定していることにならざるを得ない。

 安楽死・尊厳死の正当性を主張したいなら、この行ないが自殺を助けることであることを認め、さらに自殺を助けることが原則的に許容されるべきだと主張するとよい。(345頁)


だが、自殺幇助は犯罪だ。

どうしても死ぬことを手伝いたいのなら、それは可能である。罪に問われるが、それはそのぐらいの覚悟があっての行ないであってよい。(345頁)


これはもちろん皮肉であるが、尊厳死は自殺幇助であることをごまかすべきではない。

もし、人生に悲観して死ぬことを選ぼうとしているひとがいたとする。

ビルの屋上に立って、飛び降りようとしている。

そのひとがあなたに背中を押してほしいと頼んだとする。

あなたは快くそれを引き受けるのか?

そして、ここまで述べてきたことから言えることとして、あなたがしようという行ないはむしろ衆生を救う方向には向かわず、追随して死んでしまう人や、死に巻き込まれる人を増やしてしまうこと、かえって少なからぬ人たちを生きにくくさせてしまうかもしれないということを言い、あなたの思いをかなえたいのであれば、むしろ、いささか無理をしても、あなたは生きていた方がよい、と言うことである。あなたは謙虚な心をもってさらに慈悲の心をもって自ら身を引くことを考えている。ならば、その慈悲の心をもってここは生き続けていただきたい。そうお願いするのである。(347頁)


自分の存在がひとに迷惑をかけているかもしれないと思うひとに、
そんなことはない、迷惑をかけたっていいのだ、と言えることによって、
尊厳死を選び自分からこの世を去ろうとするひとが減るのではないか。

すべてのひとに生きる権利が無条件である。

これを前提にしない社会は、差別を克服することなどできないだろう。








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
申し訳ありません、連投してしまいますm(__)m
あるお医者さんのエピソードには、ぐっときてしまいました。
自分がもし、親に「殺してくれ」と懇願されてしまったらと思うと、その親と口論できる強さに胸が痛みます。
自分なら、なす術なく、全身の力が抜け、泣いてしまうでしょう。
強くなりたいと思いました(^_^;)

しかし、太田某って・・・葬儀屋さん(葬儀屋の方がお読みでしたら申し訳ありませんm(__)m)ですかね。
「ナチスではないけれど・・・」
記者の方も突っ込んでくれれば面白かったのに・・・

「充分ナチスです」と・・・
船頭
2009/07/04 12:07
◆船頭さま

いえいえ、船頭さんのコメントは大歓迎です。いつもありがとうござます。

太田典礼の思想・価値観は、どうしたって「優生思想」に近づきますよね。安楽死・尊厳死に限らず、外国人排斥にしても、ナチスはまだ死んでいない、ということが痛感されます。

ところで、「葬儀屋」というのは、「亡くなったひと」の儀式を取り仕切る仕事ですから、この場合は適切ではないと思います。「ソフトな殺し屋」の方が適切だと思います。
影丸
2009/07/14 11:01

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