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zoom RSS 立岩真也『良い死』(筑摩書房)@

<<   作成日時 : 2009/07/02 18:52   >>

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だいぶ長い引用になるのだが、次の文章をはじめに紹介したい。

よく知られている社会学者・宮台真司が最近出した本のなかの文章だ。

議論の入口にするのにちょうどいいと思う。

「もうがんばらないでいいよ」

 母は死の前の10日ほど、モルヒネを使った痛みを和らげる治療で意識がはっきりしない状態が続いていたんだけれど、死の前日の夕方にとつぜん、意識を取りもどした。妻が気を利かせて、ぼくと母をふたりきりにしてくれた。それで、1時間ほど話をした。
 母がずっと気にかけていたことについて、処理を済ませたり、処理の準備を整えたりしたこと。ぼくと弟が母のことをどう見ていたのかということ。どういうふうに誇りに思い、どういうふうに感謝しているかということ。そんなことを話して聞かせた。
 自分たちは、妻もふくめて母にとても感謝している。母の存在は、自分たち家族にとって福音だった。自分たちも、母のような死に方ができればいいと思っている。晩年、山荘で花に囲まれながら過ごした母にふさわしく、花ですべてをうめつくす葬儀をするつもりだ、と。
 顔が浅黒く変色した母は、これが最後の会話になるとさとっていたのだろう。久しぶりにふたつの目でぼくの目をのぞきこみ、大きな声で「おーおー」と返事をした。いっしょにいた1歳半の娘のことを、目で追うことすらできた。そして、最後にぼくはいった。
 「これまでずいぶんがんばってくれたね。だからきょうはこんなにお話ができた。もうがんばらないでいいよ。いつ逝ってもぼくたちは大丈夫だよ」。まもなく母は昏睡した。翌朝、母は逝った。ほほ笑みをうかべていた。だんだん冷えていく母の手をずっとにぎりしめていた。

多くの人が延命治療を望む現実

 ぼくは、たくさん泣いたけれど、泣きながら、母も自分も幸せなんだなと感じた。こういう看取りは、事故で急死する人にはできないし、病死の場合だって、いまはみんな仕事でいそがしいから、看取るのが難しくなっている。自分はラッキーだったと思った。
 延命治療に関する厚生労働省のデータがある。「自分や家族について、延命治療を望みますか?」という問いだ。大半が「自分については延命治療はして欲しくない」と答えている。家族が死ぬ場合にも、7割以上の人が「して欲しくない」と答えている。
 ところが、公式のデータはないけれど、実際に家族が死にかけている場面では、9割以上の人が延命治療を希望するというふうにもいわれる。家族が死にかけている場面に直面してみると、やっぱり「生きて欲しい」と思うということなんだろう。
 でも、ぼくは母の延命治療を望まなかった。母も望んでいなかった。自発的に呼吸ができなくなったら、生命維持装置はつけないと決めていた。一度つけたら、外せなくなる。外せば殺人罪になるからだ。だったら、自然に死んでいくのが一番だ。
 ぼくは、実際の場面では9割以上の人が延命治療を望むと聞いて、おどろいた。人それぞれの感じ方なんだろう、というふうに済ませていいのだろうか。意識がないのに無理やり延命させるようなやり方をすれば、ぼくのような看取りはできなくなる。

「そろそろ自分は死ぬな……」

 自発的呼吸ができない状態で、生命維持装置をつけて延命治療をする。そのことで、昔から続いてきたような看取りができなくなる。それだけでなく、脳死状態という、生きているのか死んでいるのかが論争になるような状態に、おちいりやすくなってしまう。
 脳死状態での臓器移植のための臓器の取り出しが、許されるのかどうかについて、国会でもめた末にOKだとなったことは知っているだろう。移植待ちの患者さんや家族の気持ちもよくわかるが、脳死状態の家族を見守り続ける家族の気持ちもよくわかる。
 論争の是非には立ち入らないけど、人間は自然死が一番だと思う。なぜかといえば、自分でいつ死ぬかわかるからだ。「そろそろ自分は死ぬな……」ということがわかって死んでいけるんだったら、死ぬ前に呼びたい人を呼んで、ちゃんとコミュニケーションもできる。
 そういうふうにできれば、十分じゃないだろうか。それでも生きて欲しい、というのは、ぼくにはよく理解できない。家族に延命治療を望む人たちは、家族が元気だったころに、自然死を選ぶか、延命治療の末の死を選ぶかについて、ちゃんと話し合ったのだろうか。

覚悟を決めるプロセスが大切

 ぼくは、母の延命治療をしないことにまったく迷いがなかった。それは、生前、母とそういう話をしていたからだ。母がまだ元気なときから、先に母が死ぬにせよ、ぼくが死ぬにせよ、生命維持装置をつけるとちゃんと死ねないからやめよう、と話し合ってきた。
 それだけじゃない。〈死〉をめぐるいろんな問題について、いろいろ話し合ってきた。そういうプロセスが大事だ。人は必ず死ぬ。愛し合うふたりがいれば、どちらかが先に死ぬ。だからちゃんと考えておかなくちゃいけない。そうすれば少しずつ覚悟が固まってくる。
 母の最期が近くなって、医師から「生命維持装置をつけましょうか」と聞かれたとき、母に相談せず「お断わりします」と答えた。母とふたりでずっと前から決めていたことだから、5秒後にはお断りの書類にサインしていた。病室にもどって、まだ意識があった母に報告した。「さっき先生に聞かれたけど、息ができなくなったあとで無理やり息をさせる装置は、つけないことに決めたよ。前から決めていた通りにね。それでよかったよね」。ぼくがいったら、母はぼくに向かって大きくうなずいていた。「それでいい」というふうに。

(宮台真司『14歳からの社会学』世界文化社、170−174頁)


これを読んで、どのような感想を持っただろうか?

「うん、なるほど、そのとおりだ」と思ったひともいるだろう。

実際、若者にこれを読ませると、この宮台の意見に共感するひとがとても多い。

「わたしも延命治療は望まない」

「わたしも望まないし、自分の家族にも望まない」

そういう意見が続出する。

家族の意見も聞かずに「家族にも望まない」と言える神経も不思議だが、
ともかく、多くの若者は「延命治療」を否定的に捉えているらしい。

しかし、じつは、こういう考え方こそ危険なのではないか?

宮台自身の決断、家族の判断について、あれこれ言うつもりはない。

しかし、彼が本でこのことを書き、読者の間に共感を呼んでいるとなると、
わたしはこれを見逃すことはできないし、問題にしないではいられない。

彼が個人的にどう考えたかということと延命治療の是非は別の問題だ。

まず、そもそも学問の基本とは何か?

それは「常識」や「自明性」を疑うことである。

世間の常識を疑うことである。

当たり前と思っていたことに批判的な眼差しを向けて徹底的に考えることである。

『14歳からの社会学』と題されたこの本の、この箇所では、
その学問にもっとも必要とされる「批判的知性」が欠けている。

宮台は当たり前のように書いているが、「自然死」って何なのだろうか?

医療行為がわたしたちの生活の一部に存在している現在、
「自然な死」と「不自然な死」をそう簡単に分けることができるのだろうか?

「自然に死んでいくのが一番だ」「人間は自然死が一番だと思う」という。

「自然に死ぬ」とはどういうことなのか?

人為的な措置を排除したところに「自然死」があると思っているのだろうが、
それなら医療行為をすべて否定するつもりなのか?

手術も否定するのか? 薬物投与も否定するのか?

そうでもなさそうだ。

「自然死が一番」だと考えるのは「自分でいつ死ぬかわかるからだ」という。

それなら、自殺がもっともよい死だ、ということになってしまう。

宮台は、延命治療を「意識がないのに無理やり延命させるようなやり方」と見なす。

しかし本当にそうなのだろうか?

延命治療については、世の中に数々の誤解が存在している。

   ****************************

前置きが長くなってしまった。

尊厳死を合法化する法案をつくろうとするひとたちがいる。

本人が無理な治療を望まないのであればその意思を尊重するべきだ、
というひとたちがいる。

最期は人間らしく逝きたい、というひとたちがいる。

本書は、こうした「自然な死」「尊厳死」「安楽死」などの考え方を厳しく批判する。

相変わらず立岩真也は重要なことを書いているのだが、
彼の文章は相変わらず読みにくい文体だ。

それでも大事なことが書かれているので、読んだ方がよいと思う。

まずは、本書の帯から引用をはじめよう。

体が動かなくなって迷惑をかけるぐらいなら、死んだほうがマシ
どうせ死ぬなら「自然に」死にたい
自分の死は自分で決めたい――

ほんと?


まず、多くのひとびとが抱いている誤解から取り上げよう。

・ 人工呼吸器をつけるのは、かわいそうだ。

・ 意識のない患者を無理やり生かすのはかわいそうだ。


こう思っているひとは、少なくないだろう。

しかし、素朴な疑問がある。

人工呼吸器というのは、呼吸が困難になった患者に取り付けるものである。

ということは、人工呼吸器をつけることで患者の呼吸はむしろ楽になるのではないのか?

また、意識のない患者なら、そもそも苦しんでもいないのではないのか?

だったら、人工呼吸器をつけてできるかぎりの延命治療を施すべきなのではないか?

それだけではない。

延命治療を否定的に捉えるひとが増えると、どうなるか?

延命治療を無駄なことだと考えるひとが増えたら、どうなるか?

すると、あるひとたちは「死んだ方がマシだ」と見なされるようになるだろう。

死ななくてもいいひとたちがどんどんあの世に送られてしまうだろう。

医療費のかかるひとたちが、社会のお荷物であるかのように見られてしまうだろう。

そんな社会をつくってよいのか?

本書を読むと、この問題の怖ろしさが痛感されるはずだ。

と、ここから本文の紹介をしようと思っていたのだが、
長くなってしまったので、つづきは次回にまわすとしよう。






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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは、船頭です。

先日の自分のコメントにリンクするような本書をご紹介いただき、これは是非読まねばと感じております。
ありがとうございます。

しかし、宮台さんは相変わらず何が言いたいのか微妙ですね。
議論に口を挟まないと言いつつも、延命治療の反対の立場で、議論に足を突っ込んでいるように見えるのですが・・・
それにソフトな美談ぽい話の持っていき方は、かなりの人を扇動できるようで危険ですね。
自分も一瞬、親と延命治療について話し合ってみようかと思ってしまいましたf^_^;
しかし、その話し合いの答えって、核兵器保有議論同様に一方向しか見ないような話し合いで、それは議論とも呼べないようなものになると首がアレっとひん曲がってしまいました。
親も、子も、どちらが先に死のうとも、あまり面倒をかけたくないから、延命治療を拒む方向に向かわざるを得ないのではないでしょうか?
美談ぽいお話しには、用心しなければなりませんね(T_T)
船頭
2009/07/04 11:46
◆船頭さま

こんにちは、コメントありがとうございます。

ええ、『14歳からの社会学』というなら、学問の基本・お手本となる姿勢をみずから示していただきたかったですね。家族と話し合うということについても、それ自体は正論のように聞こえますが、実際、家族とどこまできちんと話し合いが成立するかということになると、はなはだ疑問です。だいたい世の中の親や兄弟・姉妹は、この種の問題についてきちんとした知識も見識ももっていないと思うのです。そういうなかで話し合いをしても、お互いの印象を確認し合うだけで終わるのではないでしょうか? 

「美談」に見えるものこそ、用心して疑ってかかる、というのは、とても大事なことだと思います。
影丸
2009/07/14 10:56

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