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zoom RSS 道場親信『抵抗の同時代史』(人文書院)A

<<   作成日時 : 2009/06/20 03:52   >>

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社会にはさまざまなひとや組織や団体がある。

だからそこに利害対立や衝突があるのは当然である。

これを否定すれば、全体主義にならざるをえない。

もっとも、本質的に和解不能な根本対立もある。

階級対立がそれだ。

だが、一般的に言って、社会内部の利害対立は、
民主的に「交渉」したり「調停」したりして、運営されるものである。

ところが、近年は、この「交渉」「調停」をごっそり取っ払う動きがある。

酒井隆史『自由論』から筆者は引用する。

「交渉(negotiation)」、「調停(settlement)」といった概念は、20世紀型福祉国家の法的骨格をなしている、いわゆる「社会法」の中心概念を占めていた。社会法はひとつの視点からすれば、社会を和解不可能な諸勢力のコンフリクトの場として把握したうえで、コンフリクトのその都度の収斂の場を設定するためのルールとして機能しているといえる。……ところが危機管理・緊急状態のポリティクスのメカニズムの機軸にあるのは「抑圧」ではなく〈排除〉である。それは「正常状態」の達成と維持を、媒介を省略して性急に、そして暴力的に実現しようと試みる。〈排除〉の機制のもとでは、コンフリクトはシステムの言語に翻訳されないのであり、コンフリクトは正当性の場に登録されないのである。敵対的な社会実践は端的に病理でありテロルとしてたちあらわれる。(191頁)


背景にあるのは「危機管理」論の流行である。

危機管理の専門家を名乗る「佐々淳行」なるチンピラが、
各種メディアで偉そうな顔をして露出しているわけだが、
彼が「危機」を煽れば煽るほど彼のもとには「お金」が舞い込んでくる仕組みだ。

90年代には、「危機管理」論に都合のよい状況が揃っていた。

95年の動きとして……第一に、「危機管理」論の急浮上……、93−94年の北朝鮮核問題……「有事」体制づくりと結びつけて多用……。……95年1月の阪神・淡路大震災と、同年3月の地下鉄サリン事件およびその後破防法適用手続きの発動に至るオウム真理教への対応……。(192頁)


それに合わせるかのように、「ガイドライン」関連法の整備が進められた。

……ガイドライン関連法の成立は、PKO派兵を超えてついにアメリカ軍と共同の戦争遂行を立法化するものであり、非軍人の戦争動員を内容として盛り込んでいたことから、飛躍は大きかった。……武藤一羊は次のように述べている。

「ガイドライン」とはいかなる種類の外交的取り決めなのでしょうか。それは条約でしょうか。それとも日米半導体協定のような国際協定なのでしょうか。そのいずれでもありません。それは、1960年安保条約の下で機能する安全保障協議会の防衛協力小委員会によって作成された低い資格の作業文書に過ぎません。正規の国際協定ではないので、政府代表による調印すらも行われませんでした。日英両文のどちらが正文であるのかさえ明記されていません。もし条約なら、国会審議にかけられ、議論され、修正され、批准もしくは否決されていたでしょう。低いあいまいな性格の文書なので、ガイドラインは公的な審議にさらされるこうした一切の手続きを免れています。それは、97年9月23日、ただ発表されるだけで発効したのです。


 それは安保条約の実質的な改定であった。こうした方式での安保条約の改定は、1978年に作成された旧版の「ガイドライン」にすでに前例があった。60年安保闘争、そして70年の安保闘争の高揚に懲りた米日両政府が、議会を経由せずに条約を改定する手段をこのように脱法的に作り出したのがほかならぬ「ガイドライン」方式であるといえる。ガイドライン関連法の成立によって米日の軍事的一体化はよりいっそう進行した。それは2003−04年の有事関連法の成立によって総括されることになるだろう。(194−195頁)


アジア諸国に対しては居丈高にふるまう右派たちだが、
アメリカに対してだけ下品な「土下座外交」をつづけるのはどうしてなのか?

そして、今日の排外的・自己中心的ナショナリズムの噴出は、若干の「反米」志向を内包しつつ、ガス抜き的にそれが高揚することはあるが、形成されつつあるネオリベラル二大政党制のいずれの政党も、徹底して「親米」である。そしてそうであるがゆえになおさら、排外的ナショナリズムによる補完・方向づけを必要とする。
 このナショナリズムは、シニシズムや排外主義とセットになっており、ネオリベラル「改革」によって排除される者たちを積極的なエージェントとする、典型的な「ポピュリズム」のパターンを反復している。……かつての農本主義の基礎となった農村コミュニティはすでに限りなく縮小し、大都市圏以外の地域社会もまた、産業と雇用を失って解体の危機に瀕している。
 その意味で、今日「保守」を名乗る者がいたとしても、それはネオリベラリズムの国家イデオロギーの保守者か、あるいは排外的な権威主義者という意味でしかない。共同体の「伝統」に遡ったり、地域社会の「連帯」を防衛するための国家との対決にふみ切る、ラディカルなコミュニタリアンは、その生活の基盤を含め、危機に瀕している。誘導された「地域づくり」が「ボランティア」をタダで動員するか、資本の要請に従属した形でのみ許されるとすれば、そこには「保守」すべき地域社会があるのではなく、また利害を調整する共同性が担保されているわけでもない。(199頁)


ここは重要な指摘だ。

繰り返し読むべき箇所だ。

メディアには、左でもなく右でもない、「穏健な保守」を名乗るものがいる。

こういう連中のイメージは、世の中ではそれほどわるくないらしい。

しかし、今日「保守」を名乗ることは、
ネオリベラリストか権威主義者でしかないのである。

「保守」の化けの皮を剥がしてやろうではないか。

そして、「市民」という言葉も意味を大きく変えはじめている。

 安田〔常雄〕は、「市民」「市民運動」「自治」「公共性」といった概念が、一方で国家財政の破綻や「公共事業」の「公益性」への疑問の高まりによる国家的「公共性」への批判として、他方ボランティア、NGO・NPOによる「市民的公共性」への期待の高まりとしてあらわれてきていることを指摘しながら、「1980年代以降のネオリベラリズムの再編強化のなかで」、これらの概念が「本来もつ意味が換骨奪胎され、ある場合にはまったく意味を変えられようとしている」という点を指摘している。

 かつて万人に開かれていた「市民」という言葉は、いまや自ら積極的に「自己責任」(self-responsibility)を果たし、「自己統治」(self-government)に励むものだけが「市民」と定義され、そこから排除される人々は意欲なき無能なものとされるか、危険な存在として管理の対象とされるしかない。[……]「市民」「市民運動」「自治」「公共性」という場所は、一つのクリティカルな「争闘の場」を形成しようとしているといってもよい。(208頁)


世の中のひとびとは、「普通の市民」を名乗りながら、
別の「市民」を排除し、攻撃しようとしているのである。

もともと「市民」というのは、そういうものではなかったのに。

……「市民」を名乗りつつ運動者を排除する動きは、「水俣病」の名称の廃止を訴えたり、患者たちを「ニセ患者」と呼んだ水俣の「市民」の例にとどまらず……。……インターネットの匿名掲示板などでは、運動に携わる市民を「プロ市民」と呼び、揶揄の対象として排外意識が煽られている。(210頁)


この排外主義にまみれた「普通の市民」というのは、
わたしがこれまで「卑劣なひとびと」と名づけて批判しつづけている連中のことだ。

ここで再度思い出しておこう。

日本人ボランティアがイラクで人質になった事件のことを。

あのとき、フジ・サンケイ・グループなどの右派メディアを中心に、
なんと「自作自演」説が流されたのだった。

人質となった被害者がいるというのに、
被害者の生命を案じる家族がいるというのに、
「あれは自作自演のウソだ」などと荒唐無稽な暴論を繰り返していた。

右派というのは、どこまでバカをさらせば気が済むのだろうか?

 ……2004年4月にイラクで起きた、NGO活動家の「人質」事件……。……ここでメディアによって撒き散らされた「自作自演」論は、活動家と「フツー」の人々を切り離し、「そんなことをやっている(「フツー」でない)人間は○○されてあたりまえだ」という排除の「自己責任」論として展開された。ここには、自立した人間の存在を理想とする啓蒙主義的な「市民」言説があるわけでもなく、ただ「フツーでない」人物像を作り上げておいて、「甘え」「自己満足」といった負のレッテルを貼るためだけに「自立」が説かれている。この「自立」の語の限定と矮小化は、ネオリベラリズムの下での「自立支援」などという語法と同様の問題をはらんでいるといえるだろう。
 いまや、単に何もしないだけでなく、何か運動をしている人々を「反日分子」呼ばわりし、自らはあたかも「無色」であるかのように欺瞞して、他者の足を引っ張ることに快楽を見出すシニシストたちが、「ふつうの市民」の語の所有権を主張しているという現実がここには存在している。(210頁)


出ましたよ、これがボランティアを評価できない日本人の姿である。

この国は、いつの間にか、自称愛国主義者どもに乗っ取られてしまった。

アメリカのイラク戦争に協力して自衛隊を派兵しないと、
北朝鮮の拉致問題でアメリカの協力を引き出すことはできない、
と彼らは言った。

そして、自衛隊をイラクに派遣した。

拉致問題解決のためと称して、安倍晋三の超右翼政権を成立させた。

ところがブッシュ政権は北朝鮮の「テロ支援国家」指定を解除した。

安倍は、お腹が痛いと言って下痢を理由に政権を放り出した。

そして自衛隊派兵という実績だけが残った。

……大塚英志が「グランドルールとしての憲法と戦争体験」の中で指摘していたが、被占領国であった日本が、このイラク占領で占領国になることによって、戦後の“トラウマ”を払拭するという欲望がそこに存在しているといえるかもしれない。(227頁)


トラウマを払拭するために利用されたイラク市民はたまったものではないだろう。

次に、極度に自己中心的な右派が好んで使うフレーズについて取り上げよう。

わたしのこのブログにもちょっかいを出してきた右派が、
「郷土」「祖国」といったフレーズを並べて外国人排斥を主張していたことを思い出そう。

「郷土」「祖国」、このうえなく陳腐なフレーズだ。

だが、このことについて本当に考えてみたことがあるのなら、
右派も次のことに気づいたはずである。

「祖国」をどうして単純に「国家」と同一視することができるのか?

「郷土」をどうして「国家」と重ねてしまうというなどという愚かなことができるのか?

簡潔に言えば、彼らは洗脳され刷り込まれているからだ。

「祖国」の観念は、国境を超えることもしばしばあるし、
国境の内部で収縮することもある。

アジアを「祖国」と見なすこともできるし、「地球」を祖国と見なすこともできる。

「国家」とのみ同一視しなければならない根拠は、まったく存在しない。

「郷土」にしてもそうだ。

……「郷土」を破壊する国家の政策、たとえば巨大公共事業に対し、住民の自決権に立ってその「公共性」の仮象性を批判し、地域の公共性を対置する地域主義、住民運動の動きもまたpatriotismの文脈で理解できる。(236頁)


しかし、右派はバカだからなのか、カルシウム不足だからなのか、
「郷土」というとそれはただちに「国家」だけを意味するらしい。

「郷土」をこれほどまでに荒廃させたのは、自民党政権だったのではないのか。

「郷土」を食いものにしてきたのは、ゼネコンだったのではないのか。

想像力の貧しい自称愛国主義者たちは、
「郷土」と「祖国」を「国家」とだけ重ね合わせ、勝手にそれを独占するのだ。

そして、自分の気に入らないひとたちを「祖国」や「郷土」から排除しようとするのだ。

次に、筆者と酒井隆史の対談を見てみよう。

ここで酒井隆史が重要なことを述べている。

「平等」という概念の価値が暴落しているというのだ。

ひとびとの間で「平等」のイメージが怖ろしいほどに貧弱になっているという。

酒井 しかし、いまはこうした概念を粗暴に単純化して、それを否定する身ぶりが拡がっているのが一つの背景にあるような気もしています。たとえば、平等のイメージが「運動会でみんな一緒にゴールする」になってしまうとか。(238頁)


これはわたしも痛感しているところだ。

「格差是正」とか「平等」とかが話題になると、
決まって「運動会で手をつないで一緒にゴール」の話を持ち出すひとがいる。

若者にもたくさんいる。

先日も、テレビでそんなことを言っていたタレントがいた。

こういうひとたちの「脳みその貧困」には唖然とするばかりだ。

彼らは決まってそのあとにこう言う。

「でも、実社会には競争があるのですからね」

ひどいひとになると、それをすべて「戦後民主主義教育」のせいにする。

なかには「日教組」批判に利用するひとまでいる。

実際に「運動会でいっしょにゴール」させる小学校や中学校があるのだろうか?

ほんのいくつかはあるのかもしれないが、
これはほとんど「都市伝説」のレベルであろう。

こういう話を使って「平等」批判をした気になるのは、勘弁していただきたい。

日本社会は、極度に右傾化している。

驚くほどに自閉し、国際社会から孤立している。

ネット空間は、読むに耐えない差別・暴言の類いで埋め尽くされている。

日本の加害の過去を少しでも取り上げれば、
「自虐的だ」「反日だ」という「バカの一つ覚え」の反動が噴出する。

……現在の日本において、近い過去をめぐる公論世界は人々の経験の質や人々の活動の集積としての社会のあり方への想像力を豊かにすることよりも、これを貧しくして人々に無力感を与えたり、つながるべき人々との共感や理解を切断し中和する方向へと流れているように思われる。最終的にそれは「文化論」――「日本文化」の固有性――として超歴史化されるか、市場万能主義――そこでは歴史的経験はあらかじめ無意味化されている――への屈服を必然化する形で「歴史の死」へと導かれる。死んだ歴史の上には、断片化され趣味化されたストーリーが積み上げられるばかりであるが、そこには思考や熟慮を強いる難題や他者は登場することもなく、自分にとって都合のいいエピソードばかりが羅列されることになる。(266頁)


歴史は、自称愛国主義者と市場原理主義者によって踏みにじられる。

彼らほど、人間の存在を愚弄するひとたちはいないだろう。

戦争に反対するわたしたちは、
反動的な彼らに対して、公然と内戦を呼びかけるべき時期にあるのだろうか?

わたしたちは、自称愛国主義者どもを甘やかしすぎているように思う。








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