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zoom RSS 道場親信『抵抗の同時代史』(人文書院)@

<<   作成日時 : 2009/06/19 23:36   >>

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近年の日本は、民主主義というモノサシで見ると、明らかに退行している。

これほどまでに右傾化・全体主義化が進行しているのに、
多くのひとびとにはこの深刻な状況に対する危機感が感じられない。

専門家のなかにもいる。

世界はもうイデオロギーの時代ではなくなった、という識者がいる。

どこを見てモノを言っているのだろうか?

いま日本を方向づけているのは、ネオリベラリズムというイデオロギーである。

グローバル化と高齢化社会化という相互に独立した要因に加え、長期不況、国家債務といった「危機」の累積を脅迫的に提示してみせることによって、ネオリベラリスト政治家・経営者・官僚・そしてこれに便乗した「評論家」たちによる「小さな政府」「規制緩和」の大合唱が「世論」をのみこんでいく現実。さらに「テロ」と「有事」の「危機」が煽られ、軍事化・監視化・警察権力の強化が国家と私生活の「セキュリティ」のためにと進められている。2005年の総選挙に際しては、「小泉劇場」の勝利によってネオリベラル化競争に一歩先んじた自民党と後を追う民主党とのネオリベラル二大政党制の確立が強く印象づけられる結果となった。(11−12頁)


政権交代が叫ばれている日本だが、
自民党か民主党しか選択肢がないという日本の現状は、希望が持てるのか?

いや、悪夢そのものだ。

小沢一郎がかつて仕掛けた選挙制度改革によって、
国家権力に抵抗する市民の運動はかき消されてしまった。

小沢の仕掛けた「改革」というのは、小選挙区制の導入だ。

一般的に小選挙区制は政権交代がしやすいというメリットがあると言われる。

しかし小沢一郎の本当のターゲットは、反体制派にあった。

1つの選挙区で3〜5人を選ぶ中選挙区制では、野党は候補者を1人に絞るかぎり、黙っていても必ず当選する。何がなんでも与党に反対する2割ほどの反体制的批判票が必ず存在しているからだ。


これは、小沢自身の弁である。

 つまり、小選挙区制の導入は、「政権交代のある民主主義」……創出のための「政治改革」なのではなく、「2割ほどの反体制的批判票」を封じるための公論世界の縮減にその主要目的があった。その「反体制的批判票」とされる標的とは、社会党以外の何ものでもなかった。(180頁)


著者は、小選挙区の導入に対する危機感が当時は薄かったと反省している。

このあたりの認識はやや甘いと言われても仕方がないか。

あのとき、小選挙区導入に対してもっとも精力的に批判していたのは、
ジャーナリストの石川真澄(朝日新聞)だったと思う。

その結果、二大政党制による政権交代という政治ゲームで満足する、
という目くらましにまんまと騙された「常識」が形成されてしまったのである。

二大政党のいずれも支持しないひとびとはかろうじて存在しているが、
彼らを攻撃しているのが「ぷちナショナリスト」とか「ネット右翼」とか呼ばれる連中だ。

では、自称愛国主義者たちがとる立場はどのようなものなのか?

それは「ふつうの市民」である。

かつて「ふつうの市民」は、国家権力に対抗するひとびとが名乗っていたものだ。

……かつては市民運動を支えた「ふつうの市民」という意識が、政治権力に対して敵対的でないこと、さらには批判的でないことを意味するものへと転化してきている傾向が見受けられる。たとえば小田実がベ平連運動の中で「ふつうの市民」による運動であることを強調したことの含意は、24時間フルタイムの活動家ではなく、職業をもった人々が時間や資源をもち寄って、創意工夫ある運動を作っていこうという呼びかけであった。
 いまや、市民運動の携わるかつての「ふつうの市民」は「プロ市民」と呼ばれ、単に何もしないというより、運動する人々を時に「反日分子」呼ばわりするシニシズムの使徒たちがこのことばの所有権を主張している。(16頁)


いまや、自称愛国主義者たちが「ふつうの市民」を名乗り、
市民運動に関わるひとびとを「プロ市民」などと言って攻撃しているわけだ。

あるいは「反日分子」などと言って攻撃しているわけだ。

権力の従順な下僕が「ふつうの市民」を名乗ることの滑稽さ。

ああ、どこまでナショナリストは愚かなのだろうか?

抵抗を組織する連帯性を支える社会的紐帯を断ち切られてしまった人々に差し出されるのが「2ちゃんねる」的排外主義と、「小泉劇場」に代表される売国ナショナリズム(?)であるといえるだろう。(44頁)


自称愛国主義者たちの滑稽なところは、
彼ら/彼女らの主張を実現していけばいくほど、「売国」になっていくということだ。

「靖国」だ、「慰安婦問題」だ、と「愛国者」気取りで自国を「防衛」している気になっている「ぷちナショナリスト」たちは、より大局的に見た本質的な従属の深まりにもっと「憂国」の情を涵養すべきではないか? そして、「自主性」を呼号すればするほど従属を深める冷戦型ナショナリズム――それは50年代以来、政府および自称「保守」勢力の中に一貫して溢れている――の中に依然として自分たちがどっぷりと漬かっていることにそろそろ気づくべきであろう。(44−45頁)


「強い日本」に憧れるひとびとの言うとおりにすると、
ますます日本は米国に従属していくしかないのである。

さらにもうひとつ彼ら/彼女らは気づくべきであろう。

彼ら/彼女らが目指す国というのは、じつは全体主義国家なのだということを。

どうしてこんな簡単なことが分からないのだろうか?

バカだからだろうか?

カルシウム不足だからだろうか?

ここで筆者は、右派に見られる幼稚な「ダブル・スタンダード」を指摘する。

この話は、わたしも何度も指摘したことなので、おなじみのものだろう。

著者は、歴史学者・吉田裕の主張をこう引用している。

 具体的にいえば、対外的には講和条約の第11条で東京裁判の判決を受諾するという形で必要最小限度の戦争責任を認めることによってアメリカの同盟者としての地位を獲得する、しかし、国内においては戦争責任の問題を事実上、否定する、あるいは不問に付す、というように、対外的な姿勢と国内的な取り扱いを意識的にせよ無意識的にせよ、使いわけるような問題の処理の仕方がそれである。


対外的な態度と体内的な態度を巧妙に使い分ける。

ふむ、卑劣である。

そういえば、安倍晋三もそうだった。

国内では「元慰安婦」を侮辱する発言を繰り返し、勝手に歴史を書き換えようとした。

しかし国際社会ではそのような「歴史偽装」は許されるはずもなく、
アメリカで「慰安婦問題」対して「謝罪」するという失態を演じた。

だが彼は「元慰安婦」の女性たちには一度も謝罪していない。

……吉田は、占領初期に「大東亜戦争」の呼称を禁止する代わりに占領軍が普及を図った「太平洋戦争」という呼称、および戦争観は、日本がもっぱら米英の物量の前に敗北したという認識を強める一方、アジアの人々の抵抗やアジアにおける戦争被害者を忘却させるものとして機能したことを指摘しているが、外向きには「太平洋戦争」史観、内向きには「大東亜戦争」史観のダブル・スタンダードが成り立っていたということもできるだろう。(113頁)


「ダブル・スタンダード」は日本人の歴史認識にも影響を与えた。

 また、この吉田の議論の重要なところは、東京裁判の結果を受け入れることで「日米合作」ともいうべき昭和天皇の戦争責任免責の構造を完結させ、責任の“封印”をしているのだという立場から、裁判を「勝者の裁き」として否定する「大東亜戦争」史観がこの一線を超えようとするとき、同時に昭和天皇の戦争責任の封印も解けてしまうのだという点を指摘していることである。それはすなわち、日本政府と官僚といえども、昭和天皇免責をめぐる「合作」劇の構造には依然として手をつけることができないことを意味しているといえるだろう。(113−114頁)


右派のジレンマである。

 日本遺族会の戦没者観・戦争観もまた、こうした冷戦期の「ダブル・スタンダード」の中で成長し、また、その内部でのみ、成長を許された。そして、この冷戦期のダブル・スタンダードの中では、死者の取り扱いに関するもう一つのダブル・スタンダードが生み出されていた。すなわち、国家による公的補償という制度面と、死者の魂の「合祀」という靖国神社の宗教的行為とが作り出す二重基準である。日本政府は戦後、数々の戦争被害者に対する公的補償を拒み、「講和」に相当する各条約の中で「解決済み」という立場をとってきた……。日本政府の引き起こした戦争に従事して命を失った人々に対する「国家補償」であるはずの「恩給」の支給をも旧植民地出身者に対しては拒み続ける一方、死の時点で「公務」による死と認められた戦没者は、すべて遺族に断りもなく靖国神社に「合祀」されている。(114頁)


これを筆者は、次のように名づけている。

……この選別的な補償と魂の「無差別的」同化に関わる選別と同化のダブル・スタンダード……。(114頁)


「選別と同化のダブル・スタンダード」。

このダブル・スタンダードに無自覚なまま、右派は好戦的な主張を繰り返す。

麻生太郎や田母神俊雄は、戦争をやりたがって「うずうず」している。

 この好戦的な議論がやりたがっている「戦争」は、「勝てる戦争」だ。……この“汚い戦争”の「勝ち組」に参加したい、という欲望……。……佐藤健志が『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』で指摘したように、「勝ち組」に加わりたいという欲望は、たとえば1974年のアニメ「宇宙戦艦ヤマト」で、「ヤマト」に乗るなぜか「日本人」ばかりの「地球防衛軍」が、独裁者「デスラー」、将軍「ドメル」といったナチスドイツを想起させる「敵」と戦い、滅亡寸前の地球を救う、というストーリーの中に現われていた。日本は「連合軍」の側に比せられているのだ。こうした「勝ち組」への欲望は、端的に戦争の忘却、という歴史意識の欠如に由来している面もあるが、他方で「終わらない戦後」の問題に直面した回避行動ともいえる。(142頁)


そのとき、彼らが決まって使うフレーズが「普通の国」である。

小沢一郎が編み出したこのフレーズは、
「自衛隊の国防軍化」「軍事力の強化」「個別的自衛権・集団的自衛権の承認」を求める。

それが「普通の国」の姿だという。

 おそらく、「普通の国」になりたいのであれば、軍事力を強化することよりもまず先に、政治迫害による「難民」「亡命者」を受け入れることから始めるべきであろう。政治的事情により自国を追われた「難民」「亡命者」が庇護を求めてきた場合、それを受け入れるという慣習が国際的に存在しているが、日本政府は「難民条約」加入以降もほとんど受け入れていない。(143頁)


まったくである。

「普通の国」になりたいのであれば、
難民を積極的に受け入れるべきであろう。

ODAを数倍に増額させるべきであろう。

死刑制度を廃止すべきであろう。

女性差別や子どもの人権についても積極的に取り組むべきだろう。

障害者や先住民の人権についても積極的に守るべきだろう。

ところが彼らはそういうことには「だんまり」を決め込み、
もっぱら軍事面だけで「普通の国」になろうと鼻息を荒くするのである。

しかし、麻生太郎であれ、石原慎太郎であれ、安倍晋三であれ、
彼らは誰ひとりとして自分は戦場に行かないのである。

……戦争を企画する人々は、自分ではない人々に銃をとらせることで、その成果を手にしようとする。人間を捨てて顧みない「国家」こそが「普通の国」と呼ばれてきたものの内実であろう。「普通の国」はあらかじめ引き裂かれているのである。
 この前提条件としての断裂をイデオロギー的に糊塗するために、為政者は「共苦」の経験を強調する。苦難も栄誉も共にするのが「国民」であると。当然のことながら、これを拒否する者は、「非国民」として排除されることになる。(144頁)


「国民」と見なせるひとを「選別」し、「非国民」を「排除」する。

このとき、恥ずかしげもなく「暴力」が露呈する。

わたしたちが目指すところは、
そういう「普通の国」ではないはずだ。

言論・集会・結社の自由、良心的兵役拒否、市民的不服従、脱走、亡命、といったこれまで積み上げられ、制度領域に食い込んできた抵抗線をますます活用するとともに、そうした抵抗は市民の権利であるということを訴えていくこと、国民的「共苦」の陶酔に抗して「否」を言えること、またそう口にする人を支える人間関係をつくり育てること、それこそが、「国家」以前の権利として1人1人の市民が原理的に担保している「普通の」権利(自然権)であろう。国家に譲り渡すことのできない「市民」としての「自衛権」がそれである。(144頁)


わたしたちは、国家の勝手にはさせない、されない権利を持つ。

いま日本人にもっとも欠落しているのは、国家に対する批判である。

自民党への批判はある。

官僚への批判もある。

欠けているのは「国家」への批判なのである。

ただし、1970〜80年代に生じた一連の事件を、突然に生じた北朝鮮の突出した行為として例外的に扱うのではなく、東アジアの冷戦体制の中で生じた一連の国家テロリズムとの関連において理解することが必要であるように思われる。
 朝鮮半島に限ってみても、南北双方、さらにCIAなどが「工作」を行っており、多数の行方不明者を生み出しているし、冷戦の「前哨国家」となったために、社会の軍事化が進み、基地周辺での暴行・殺人・行方不明などの暴力(日常化され恒常化された暴力)や、軍事独裁政権による暴行・拉致・監禁が多数発生している。これらは国家の暴力装置(謀略装置?)によって生み出されたテロリズム、という意味において「国家テロリズム」と呼ぶことができるだろう。(157頁)


国家への批判ができないと、「国家テロリズム」を批判することもできまい。

 日本は戦後、かつての自らの国家テロリズムについて、真相解明の努力を怠り、被害者の弾劾に十分に向き合ってこなかった。強制連行は、たとえば空襲による家屋焼失のような「戦争被害」なのではなく、国家が強制的に身柄を拘束し、意に沿わぬところに居住し、意に沿わぬ労働(苦役)を強いる、人間の尊厳に対する侵害であり、それゆえ「戦争」と相対的に区別される「国家テロリズム」なのである(それが戦時に行われたという意味では「戦争犯罪」でもあるが)。(159頁)


北朝鮮による「国家テロ」を批判するのであれば、
ひとしく日本による「国家テロ」も批判すべきではないのか。

 焦点となるのは、個人賠償である。それは国家間の「賠償」の中で相殺されるべき問題ではない。国家テロリズムに対する個人賠償の原則を確立することは、国家が「国家理性」のために犠牲を生みだす権利を有する、というかのような、功利主義的な「公共の福祉」論を厳しく問い返し、国家が公共性を独占するこれまでのパターナリスティックな国家のあり方を清算する機会となる……。(161頁)


そうだ。

慰安婦問題でも強制連行でも、問われているのは「個人賠償」だ。

ところが、日本政府は、つねに矛盾にみちた対応しかしていない。

ご都合主義的に「日本国籍」を伸び縮みさせることで対応しているのだ。

 罪のない人々の拉致が人道に反する許すべからざる犯罪であるのなら、どうしてアルベルト・フジモリをペルーに送還して、フジモリ政権下の軍や国家情報局による拉致問題、「失踪者」問題の真相解明に協力しないのか。フジモリには「日本国籍」があるというのがその「理由」だそうだが、これら一連の「ホスピタリティ」あふれる行為には、いずれも融通無碍な「日本国籍」の適用と、恣意的な「人道主義」の採用がある。フジモリの送還が「人道」に反するとするなら、政治的迫害の可能性のある難民認定申請者を送還することはもっと「人道」に反するだろう。それは「脱北者」に限ったことではない。(163頁)


日本人が、本当に「人権」について理解し、
「国家テロ」を批判できる地平に立つことは、いつになったらできるのだろうか?








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