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zoom RSS 高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)B

<<   作成日時 : 2009/06/08 04:28   >>

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次に筆者は、「宗教の問題」から靖国を捉える。

ここに、靖国神社の持つ独善性がきわめて鮮明に浮かび上がる。

靖国神社は、ひとつの宗教法人である。

「創価学会」や「幸福の科学」や霊感商法の「統一協会」、
それからかつての「オウム真理教」や、
「最高ですか?」でおなじみの足の裏占いの「法の華三法行」と同じように、
宗教法人である。

書いていて思い出したのだが、
この「法の華三法行」では、
教祖が「最高ですか〜?」と聞くと信者が「最高です!」と答える約束になっていた。

この教祖が詐欺で逮捕され連行されていくときに、
取り囲む記者のひとりが教祖に向かって「最高ですか? 最高ですか?」と聞いていて、
思わず笑ってしまった覚えがある。

話を戻そう。

靖国神社は、宗教法人である。

国が靖国神社と特別な関係を結ぶことは、憲法違反である。

よいか?

われわれ日本人にとっても、
首相の靖国参拝は違憲であり、許されざる行為なのだ。

さらに言うなら、
首相の靖国参拝だけが問題なのではない。

閣僚の参拝も政治家の参拝も知事の参拝も許されざる問題なのだ。

前にも示唆しておいたことなのだが、
靖国神社は遺族や本人の意志とは無関係に合祀するひととしないひとを選別する。

勝手に自分の家族を祀らないでくれと訴えるひとびとの声を無視して、
靖国神社は合祀をつづける。

天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われたのである」という池田権宮司の発言によくよく注意しなければならない。もしそうであるとするなら、無視されているのは合祀絶止を求める遺族の意志・感情だけではない。戦死した家族の合祀を求める遺族の意志・感情も、いわばたまたま「天皇の意志」に合致しているにすぎないのである。本質的には、無視されていることに変わりはないのだ。(120頁)


ここがまた痛快で重要なところだ。

無視されているのは、合祀に反対するひとびとの声だけではない。

合祀に賛成したり、靖国神社を肯定するひとびとの声も無視するのである。

靖国神社に参拝しているひとたちよ。

あなたたちのことなど、当の靖国神社は何とも思っていないのだよ。

つまり、靖国神社は本質的に遺族の意志・感情を無視する施設である。それが尊重するのは「天皇の意志」のみである。(102頁)


前回のポイントは、靖国神社が日本植民地主義と一体化した組織だということだった。

ここで新たに加わるのが、「天皇」である。

靖国神社はこうして、明治天皇の勅命によって創建された「天皇の神社」としての本質を、敗戦後60年が経過した今も変わらず維持しつづけている。植民地主義にせよ、天皇制にせよ、靖国神社は旧日本帝国のイデオロギーがそのまま生き続けている場所なのだ。(102頁)


ところで、かつても今も、日本には神道信者だけが暮らしているわけではない。

仏教ともいれば、キリスト教徒もいれば、無宗教のひともいる。

それなのに、かつて「国家神道」はすべての日本臣民を飲み込んだ。

そこにはどのような「魔法」があったのだろうか?

それは「神社非宗教論」である。

「神社は宗教にあらず」という「神社非宗教」論は、この「祭教分離」の別名である。神社神道はこうして、自らの「宗教」性を否定して「国家の祭祀」となることによって「国家神道」となる。国家神道は一方で、伊勢神宮を頂点とする神社制度を一大国家システムとして確立し、他方では、神道の教義を天皇の国家=皇国への忠誠と愛国心を中心とする国民道徳にまで非宗教化する。国家神道はこの結果、全国民、全宗教を自らのうちに取り込む「超宗教」となったのである。(129頁)


いわばさまざまな宗教を大きく飲み込むかたちで、
「国家宗教」の中心装置として「国家神道」は機能したということだ。

そして、現在、アジア諸国からの批判をかわす目的で、
靖国神社の非宗教化をもくろむ動きがある。

この問題を考えるうえで興味深いエピソードを紹介しよう。

「靖国神社参拝拒否事件」である。

「満州事変」のあった1931年の翌年、熱心なクリスチャンだった2人の上智大学学生が、軍事教官に引率されて靖国神社遊就館の見学に行ったさい、参拝を拒んだ。それが新聞に書きたてられて大問題となり、陸軍省は上智大学からの配属将校の引き揚げを実施、反カトリック・キャンペーンに発展した。(132頁)


全体の「空気」に同調しないひとをメディアがバッシングするというのは、
戦前も現在もあまり変わらないような気もするが、
キリスト教徒が徹底的に弾圧された象徴的な事件であった。

これに対して、大学側も苦悩することになる。

シャンボン大司教は、カトリック教徒の学生らが神社や『招魂社』参拝を要求され、「敬礼」に加わることを求められるのは、「偏に愛国的異議を有するものにして豪も宗教的意義を有するに非ざるを」明らかにしてほしい、と求めた。(132頁)


つまり、靖国神社への参拝を強制されるならば、
宗教的なものとしてではなく、国家儀礼的なものと見なしてほしい、と求めたのだ。

この心理は理解できないものではない。

クリスチャンにとっては、信仰に関わる重大な問題であったろう。

上智大学はこの事件で存亡の危機に瀕したが、結局、全面屈服と引き換えに危機を逃れた。学長以下全校謹慎したうえで、学長・神父・学生がこぞって靖国神社に参拝し、「忠君愛国の士を祀る神社に参拝することは、国民としての公の義務にかかわることであって、各自の私的信仰とは別個の事柄であることを了解」したと文部省に伝えたのである。(133頁)


上智大学にこのような「苦い歴史」があったことも興味深いが、
こうして「植民地戦争」に彼らも動員されていったのだということを忘れてはなるまい。

では、この事件から分かることは何だろうか?

それは、靖国神社を「非宗教化」しても問題解決にはならない、ということだ。

それどころか、靖国の非宗教化は、
戦前の「国家神道の復活」以外の何ものでもない。

そうすると、わたしたちの目指すところは、おのずと見えてくる。

首相の靖国参拝を政教分離の原則から批判するだけではいけない。

A級戦犯の合祀を批判するだけではいけない。

靖国神社そのものの解体・廃止こそが、わたしたちの目指すべき地点である。







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