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zoom RSS 中島義道『人生に生きる価値はない』(新潮社)

<<   作成日時 : 2009/05/03 18:55   >>

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著名な哲学者によるエッセイ集。

中島義道は、相変わらず怒ってばかりいる。

日本社会に怒り、常識に怒り、凡庸なひとびとに怒っている。

例えば「いじめ問題」について。

いじめは、学校でも職場でも横行している。

ただ、メディアが取り上げるのは「学校でのいじめ」だけだ。

いじめによる自殺者が出ると、こんな言葉がメディアで踊り出す。

「いじめられているひとへ、きみはひとりじゃない」

「いじめられているひとへ、誰かに相談してみよう」

「いのちを大切にしてほしい」

「いじめはよくないことだ」


誰もいじめの本当の原因には触れようとしない。

では、いじめの本当の原因とは何だろうか?

それは、わが国の国土をすっぽり覆っている、いや日本人のDNAの中に染み込んでいるとすら思われる「みんな一緒主義」である。あるいは、協調性偏愛主義であり、ジコチュー嫌悪主義であり、形だけ平穏主義と言ってもいい。つまり、日本人のほとんどがそれに絶大な価値を置いていることこそが「日本型いじめ」の真の原因なのだ。(7頁)


ところが、テレビのコメンテーターどもは間抜けなコメントを繰り返す。

「昔は、みんなもっと協調性をもっていた」

「昔は、他人に対する思いやりがあった」


このようにしみじみ語る「バカ評論家」は即刻廃業すべきだ、と著者は言う。

どんなテーマでもすぐに「昔」を美化するのが、「バカ」の典型だ。

「昔の日本は良かった、それに比べて最近の若者は……」

ああ、何度わたしたちはこのような戯言を聞かされてきただろうか。

いじめは、協調性の欠如から生ずるのではない。協調性の欠如を非難する態度から生ずるのである。このことを、私も私のまわりの人間関係に悩んでいる少なからぬ青年たちもからだの底からよくわかっているのに、どうして「普通教」の信者たちはこれほどにもアホなのであろう。協調性の弊害をまったく念頭に置かず、そこから逸脱する行為を「わがまま」と言って一刀両断のもとに切り捨てるあなたのような大人こそ、いじめの根本原因なのだ、と言いたい。(9頁)


協調性、みんな一緒主義。

コメンテーターたちこそいじめの共犯者だ、というわけだ。

外国人を排斥しようとするのも、このような愚かな価値観にもとづいている。

協調性のある人とは、「周囲に合わせられる人」にすぎない。周囲が魔女裁判に熱病のように浮かされているときには、魔女を火あぶりにしようと真剣に企む人であり、周囲がユダヤ人狩りに精を出しているときに、ユダヤ人を躊躇なく密告する人である。つまり、与えられた状況が何であろうと、それを批判することなく受け容れることのできる人なのである。(10−11頁)


ここで著者は魔女裁判とユダヤ人排斥を取り上げているが、
日本の侵略戦争など日本人自身による加害行為も加えるべきだろう。

なぜなら、当時の「普通の日本人」たちが戦争を賛美していたのだから。

こうして、いじめのあまり自殺してしまう少年少女たちは、現代日本に蔓延している「みんな一緒教徒」による迫害の犠牲者なのだ。いじめの原因は、自分勝手な人、集団の調和を破る人、協調性のない人、エゴイストを嫌うあなたの常識のうちにある。(11−12頁)


圧倒的多数の「常識」的なひとたち。

彼らこそ、「みんな一緒主義」を信じ込んでいるひとたちであり、
自分たちがいじめの原因をつくっている張本人であることに気づいていない。

しかもそのことに彼らは無自覚だから、著者の嫌悪感は一層激しくなる。

次に、みっともないナショナリズムについて。

昨年、4人の日本人科学者(国籍に従えば3人)がノーベル賞を受賞した。

テレビを初め、あらゆるメディアは「日本人として」嬉しいとか、「日本人として」誇りに思うという言葉で塗り尽くされていた。そうした定式化に対して何の疑問(罪悪感)も覚えないようであった。マイクを向けられた街の声もみなそうであった。(196頁)


とても気持ちのわるい光景である。

現代日本において、「俺は自分を誇りに思う」という言葉はめったに聞かれない。それが、傲慢と紙一重であること、自己愛の吐露であることを知っているゆえに、誰でも警戒するからである。だが、不思議なことに、「俺は今回のノーベル賞受賞者を日本人として誇りに思う」とか「私はオリンピックで金メダルを取った選手を日本人として誇りに思う」という言い方に切り替えたとたん、傲慢という非難をくぐりぬけ、社会的に公認される。(197頁)


「日本人としての誇り」。

自己愛の吐露、というか、悪趣味な自己愛の露出。

そしてこの優越感は必ず他の国のひとびとへの蔑視を招きよせる。

ここで意味を分かりやすくするために、著者は「東大」を例にとる。

わが国では、誰かがいかなる偉業を成し遂げても(ノーベル賞のように)、東大生や東大出身者が「東大生(あるいは東大出身者)として誇りに思います」と語る言葉は聞かれない。まさに、それらは一般国民にとって鼻をつまみたくなるほどの悪臭を放つからである。(199頁)


しかし、「日本人としての誇り」と言うとき、ひとは怖ろしいほど鈍感になる。

オリンピック選手たちの皇居への、首相官邸への、郷里の市役所への、母校への報告という名の凱旋は、かなりの臭気を放つものだと思うが、本人たちは平然とし、世間的にも(たぶん)批判は皆無であろう。しかし、「謙虚」という笠に顔を隠し、帰属意識を丸出しにしたこうした「誇り」は、その自覚がないからこそ、たいそう危険であると思う。はなはだしい暴力ないし害悪を懐に隠しもっているように思う。(197−198頁)


このような「常識」的な日本人のことを著者は「鈍感な種族」と呼んでいる。

そして、鈍感な種族は人間として最も劣悪な種族である、と断じている。






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