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zoom RSS 道場親信『占領と平和』(青土社)@

<<   作成日時 : 2009/05/29 15:15   >>

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700ページを超えるとても分厚い本だが、なかなかおもしろかった。

本書は、二部構成になっている。

 @ 前半は、ルース・ベネディクト『菊と刀』の位置づけについて。
 A 後半は、戦後の反戦平和運動について。

まず、前半部分から見てみよう。

先日このブログでも紹介したルース・ベネディクト『菊と刀』について、
筆者はその問題点を取り上げている。

わたしたちはあの本を単純におもしろく読むだけではいけないのだろうか?

結論から言えば、いけないのである。

どういうことか?

筆者は小熊英二『単一民族神話の起源』(新曜社)を批判的に取り上げるのだが、
それを説明する前に解説を。

日本には無知で愚かな右派連中がたくさんいるので、
議論の前提として「単一民族神話」について説明しておきたい。

そもそも「単一民族神話」とは、どのようなものか?

 単一民族神話とは、「単一純粋の起源をもつ、共通の文化と血統をもった日本民族だけで、日本国が構成されてきたし、また現在も構成されている」という観念である。(45頁)


では、これにはどのような特徴があるのだろうか?

 単一民族神話とよばれるものには、二つの側面がある。一つは、「日本国家は同一の言語・文化をもつ日本民族からのみ成立している」という、国家の現状認識である。そしてもう一つは、「日本列島には太古から、単一純粋な血統をもつ日本民族だけが生活してきた」という、民族の歴史認識である。(45頁)


このような単一民族神話は、じつは他の複数の神話によって補強されている。

だがこれについてはあらためて書くことにする。

「日本は単一民族国家である」というのは、端的にいって「ウソ」である。

事実と異なるからだ。

しかも、それだけではない。

「日本は長いこと単一民族国家であった」という右派の思い込みとは裏腹に、
この神話が形成されたのはじつは「戦後」になってからのことである。

つまり「単一民族国家の神話」はきわめて新しい現象なのである。

「日本は単一民族の国である」という暴言は、政治家などによって繰り返されている。

鈴木宗男もそのひとりだ。

……鈴木宗男代議士の発言に見られるような、「一国家、一言語、一民族」という表象、ここには「日本文化」はすべての「日本人」を包括して、「日本人をして日本人たらしめる」共通の生活形式、価値体系、行動様式の存在が想定されているのである。
 そこには「他者」はいない。「日本」にいるのは「日本人」だけであり、「日本人」には共通の「日本文化」がシェアされている。「日本文化」には、他と区別されうる明確な体系性と独立性があり、その「文化」は歴史的にも深く遡ることのできる持続性を有している。近代化を経ても、この「文化」は容易に衰退しなかったばかりか、日本の「近代」を強く規定している。(47−48頁)


単一民族神話を形成するのに、大きな影響を与えたものがある。

それが、ルース・ベネディクト『菊と刀』である。

 1946年に出版され、48年に日本語訳の出版された『菊と刀』は、戦後(そして冷戦下)「日本」の自己像を形成するにあたってもっとも力をもったテクストのひとつであるということができる。(48−49頁)


戦後の日本は、その自画像をアメリカ人による研究から受け取っていたのだ。

 小熊英二は、『単一民族神話の起源』において、「帝国」の時代に支配的であった異民族の「同化」論や複合民族論が、敗戦に伴う植民地の喪失によって一気に力を失い、それと入れ替わりに日本を「単一民族国家」と表象する考えが受容されていくプロセスを明らかにしている。だが、ここで登場してくるのはあくまで「日本人」による「日本」論のみであり、「敗戦」「植民地喪失」という「外発的」な要因によるとはいえ、議論そのものは「内発的」に提出されているかのような構成をとっている。ところがこの時期、「単一民族国家」像は、占領軍の側からも積極的に提示されていたことを見失ってはならない。その中心的なテクスト(ママ)は、ルース・ベネディクトによる『菊と刀』である。
 あまりにも有名なこの本は、アメリカにおける戦時の敵国研究の成果として生み出されたものだが、ここでは対象として「日本人」だけが語られ、「日本人」の「文化の型」が抽出される仕掛けになっている。彼女が依拠するボアズ仕込みの「文化相対主義」は、個々の文化を自己完結性を備えた独立存在と考え、その内的な一貫性を記述することを目的としているが、そうして描き出された「日本人」の世界には、他者はまったく登場してこない。『菊と刀』を読むと、「日本」には「日本人」しかおらず、それは歴史を超えて存在するかのように描かれ、ご丁寧に天皇制の維持まで提案されている。こうして『菊と刀』というテキスト(ママ)は、脱植民地化のプロセスをみごとに覆い隠し、同質的で超歴史的な「日本人」を完成されたパッケージとして提供するものであった。「単一民族国家」「伝統」そして象徴天皇制を丸ごとセットで与えてくれたのである。かくして同書は戦後の日本という「想像の共同体」に文化的な輪郭を与えるテキスト(ママ)として大いに読まれた、というわけである。(24−25頁)


これはとても重要な指摘である。

いまも大量に生産しつづけられる
「日本人の日本人による日本人のための日本人論」。

この気持ちの悪い傾向のキッカケは、じつはアメリカ人研究者の本だったのだ。

「日本人はいかに優れた国民か」などと下らない本を書いている連中に、
影響を与えているのが、日本人ではなくアメリカ人だったということだ。

このことを知れば、右派たちは思わず歯軋りをしてしまうのではないか。

戦後の「単一民族国家」神話は、このように、小熊が提示する「内発的」な要素と、占領軍という「外発的」な要素の合作なのである。(25頁)


ある現象の成立には、「内発的な要因」だけでなく「外発的要因」も大きく関わっている。

こういう視点はとても大事である。

「日米による合作」といえば、東京裁判だ。

愚鈍な右派たち・愛国主義者たちは、
東京裁判を「勝者による一方的な裁きだ」と非難する。

こういう愚劣な考え方に対しては、わたしも何度も批判してきた。

筆者は、歴史家の吉田裕の指摘をここで取り上げる。

……極東軍事裁判(東京裁判)……。ここで昭和天皇ヒロヒトの訴追を免れさせるための日米の努力はかなりのものであった。起訴権をアメリカ選出のキーナン主席検事のみに限定したのも、他国から天皇訴追論が出ることを抑え込むための方策であって、このような「日米合作」を通じて天皇制は維持されたのである。この点について、吉田裕は、「東京裁判史観」のレッテルの下に東京裁判を単に「勝者による裁き」としたり、「日本を一方的に『悪』と決めつけるもの」としたりする東京裁判批判派の議論は、自らの矛盾に気づいていない、と延べている。つまり、東京裁判の判決を無効にするならば、日米が努力の末に封印した昭和天皇ヒロヒトの戦争責任問題が、再度飛び出してしまうであろう、と。むしろ東京裁判の実態としては、「裁く」という身ぶりを通じて「裁かれるに値する罪」の範囲を限定し、それ以上の責任追及を封じる効果を強く持たされることになった。(27−28頁)


矛盾に気づかないで自説を述べているなんて、
自称右派・自称愛国主義者たちは何と頭が悪いのだろうか。

かくして日本は「日米安保体制」のなかに編入された。その仕上げは講和条約締結による独立と、安保条約の締結である。サンフランシスコ講和会議、およびその後の旧交戦国との講和交渉において、日本は「寛大な講和」といわれる待遇を受けた。これは、主としてアメリカの圧力により、相手国に賠償請求権を放棄させ、日本に経済的負担を与えずに経済発展を遂げさせ、「西側」を構成する有力な工業国に「テイク・オフ」させることをアメリカが望んだからであった。(29頁)


日本は、歴史上稀に見る残虐行為を行なっておきながら、
被害国に賠償請求権を放棄させたのである。

こんな国に国際的な信頼など寄せられるはずもないであろう。

「賠償」をしたとしても、そのやり方はあまりにひどいものだった。

 フィリピン、ビルマ、インドネシアといった東南アジア各国との賠償交渉(1950年代後半)においては、賠償額を切り下げるばかりでなく、「賠償」の中身を日本で調達した資本財の提供、という形をとって、自らの経済発展と経済進出の足がかりに転用する方策を日本は採った。早くも1950年代初頭から日本の政府・財界は東南アジアへの「復帰」のための「開発」プランを構想していた。「賠償」はその「開発」プランの中に活用されていった。(29頁)


恥知らずを通り越して、これはもう「外道」と呼ぶにふさわしいふるまいだ。

たとえば、これをオウム真理教に置き換えてみるとよい。

犯罪行為を行なったオウム真理教が、被害者遺族に賠償請求を放棄させたら、
ひとびとはどう思うのだろうか?

「賠償金」を支払ったとしても、それがオウム真理教経営の会社の製品で、
その後、被害者遺族たちはそのオウムの会社からモノを買いつづけなければ
ならないとしたら、ひとびとは一体どのように思うのだろうか?

オウム真理教が、被害者遺族を通じてさらに儲けていくとしたら?

これとまったく同じことを日本はアジア諸国に対して行なってきたのだ。

 20世紀の戦争は「総力戦(全体戦争=total war)」であるといわれる。……まず第一に、兵器性能の向上による、戦争規模の拡大……。第二に、……国家の生産力が総動員される、という意味でも国家総力戦である……。第三に、……民間の生産設備自体が無差別攻撃の対象になり、前線と銃後の区別がなくなるとともに、戦闘員以外にも、交戦国のすべての市民が戦争体制に組み込まれ、かつまた戦争によって死ぬ可能性が生じた。第四に、そうした総力戦体制を維持・推進するために、「国民国家」としてのイデオロギーが最大限増幅されて動員される。総力戦はナショナリズムゆえに可能になる。(56−57頁)


いま日本では、またナショナリズムの高揚が見られる。

戦争ができる国づくりも、着々と進められている。

「単一民族神話」は、国民を新たな戦争へと動員していくための装置となるだろう。

ところで、反戦の闘いを行なうものにとっても、考えなければならないことがある。

例えば韓国における反徴兵に「日本人」である私が「連帯」する、という表現を用いるとき、それは「日本人による韓国軍の解体運動=植民地主義の再来」と受けとめられる可能性は現状としてはかなり大きい。そのような軍をもつ「必然性」、つまり「侵略の防止」という理由を先方に抱かしめたのは日本による植民地化の経験が大きな要素を占めていると考えられるからだ。そしてまた、徴兵拒否から代替役務の導入(韓国には良心的懲役拒否の制度がない)、という動きに関しても、近年日本で進められつつある、「ボランティア」義務化の動きから「国家奉仕」の制度化→「選択肢」としての兵役→徴兵制という流れがつくられる可能性を考えるとき、ともに「国家奉仕」という観点を撃っていけるような関わりを模索できたらいいと思う。(41頁)


自己満足的に「反戦」を唱えればよいわけではない、ということだ。

自分たちの発する言葉が、他者にどのように響くのか。

このことも考えながら、反戦の闘いはつづけられなければならない。

後半につづく。







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