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zoom RSS ルース・ベネディクト『菊と刀』(社会思想社)A

<<   作成日時 : 2009/05/27 09:14   >>

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著者によると、日本人はよく寝る。

よく寝ることが日本人の特徴だという。

睡眠もまた、日本人の愛好する楽しみである。それは日本人の最も完成された技能の一つである。彼らはどんな姿勢ででも、またわれわれにはとても眠れそうに思われないような状況のもとにおいても、楽々とよく眠る。このことは多くの西欧の日本研究家を驚かせた事柄である。……彼らはまた夜早く床に就く。東洋諸国の中でこんなに早寝する国民はちょっとほかには見当たらない。(207頁)


電車のなかでも、日本人はよく、ぐうぐう寝ている。

そして、日本人はスケベである。

日本人はまた、自淫的享楽に対してもあまりやかましく言わない。日本人ほどこの目的のために用いるさまざまの道具を工夫した国民はほかにない。……手淫を非難する西欧人の強硬な態度――それはアメリカよりもヨーロッパの大部分の国ぐにの方がさらに強硬であるが――は、われわれが成人する以前に、われわれの意識の中に深く刻みつけられる。少年はそんなことをすれば気違いになるぞ、とか、禿げてしまうぞ、とかいうささやきを耳にする。西欧人は幼年時代に母から厳重な監視を受けた。もしその罪を犯せば、母親は非常に問題にし、体罰を加えることがあった。両手を縛ってしまうこともあった。また、神様に罰せられますよ、と言うこともあった。日本の幼児や少年はこういう経験をもたない。(216−217頁)


ここから著者は、「世間」や「恥」について詳しく考察していく。

このように、慎重と自重とを全く同一視するということの中には、他人の行動の中に看取されるあらゆる暗示に油断なく心を配ること、および他人が自分の行動を批判するということを強く意識することが含まれている。彼らは、「世間がうるさいから自重せねばならない」とか、「もし世間というものがなければ、自重しなくともよいのだが」などと言う。こういう表現は自重が外面的強制力にもとづくことを述べた、極端な言い方である。正しい行動の内面的強制力を全然考慮の中に置いていない表現である。多くの国ぐにの通俗的な言いならわしと同じように、これらの言い方も事実を誇大に表現しているのであって、現に日本人は時によっては、自分の罪業の深さに対して、ピューリタンにくらべても決してひけを取らないくらいに強烈な反応を示すことがある。とはいうもののやはり右の極端な表現は、日本人がおよそどういうところに重点を置いているかということを正しく指摘している。すなわち、日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いているのである。(256頁)


「恥」の概念が日本人にとっては大きい、という。

さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。道徳の絶対的標準を説き、良心の啓発を頼みにする社会は、罪の文化‘guilt culture’と定義することができる。(257頁)


「恥の文化」。

恥が主要な強制力となっているところにおいては、たとえ相手が懺悔聴聞僧であっても、あやまちを告白しても一向気が楽にはならない。それどころか逆に、悪い行ないが「世人の前に露顕」しない限り、思いわずらう必要はないのであって、告白はかえって自ら苦労を求めることになると考えられている。したがって、恥の文化‘shame culture’には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない。(257頁)


こうした文化では、自律した個人は生まれにくい。

真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行なうのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行なう。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。いずれの場合においても、恥は強力な強制力となる。ただしかし、恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思いこむことが必要である。ところが、名誉ということが、自ら心中に描いた理想的な自我にふさわしいように行動することを意味する国においては、人は自分の非行を誰一人知る者がいなくても罪の意識に悩む。そして彼の罪悪感は罪を告白することによって軽減される。(258頁)


日本の親が、子どもをどのように叱っているかを思い出すとよい。

電車やバスのなかで子どもが騒いでいると、親はこう注意する。

「ほら、他のひとたちが見てるでしょ」

「そんなことをしてると、笑われるわよ」

なぜそれをしてはいけないのかを説明して叱るのではない。

そういうことをすると「ひとさまに笑われる」から「やめなさい」と言っている。

「ひとが見ている」から「やめなさい」と言っている。

これが「恥の文化」の特徴である。

ここから「誰も見ていなければやってよい」というメッセージを受け取ることも可能だ。

日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、……各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。みんなが同じ規則に従ってゲームを行ない、お互いに支持しあっている時には、日本人は快活にやすやすと行動することができる。彼らはそれが日本の「使命」を遂行する道であると感じる場合には、ゲームに熱中することができる。彼らが最も手痛い心の痛手を受けるのは、彼らの徳を日本特有の善行の道標のそのまま通用しない外国に輸出しようと試みる時である。(259頁)


日本人は、このように狭い共同体のなかだけで通用するゲームを繰り返す。

だから、一般的に言って、日本人は海外で評価が低い。

自律していない個人には、人格的な魅力が欠けるからだ。

とりわけ日本人男性は海外でまったくといっていいほど「モテナイ」。

ねえ、ネット右翼さんたち。

日本は一大仏教国であるにかかわらず、いまだかつて輪廻と涅槃の思想が、国民の仏教的信仰の一部分となったことはない。これらの教えは、少数の僧侶たちが個人的に受け容れることはあっても、民衆の風習や民衆の思想に影響を及ぼしたことは一度もない。……また日本の葬式や出生にともなう儀式は、輪廻思想の影響を全然受けていない。輪廻説は日本的な思想の型ではない。(274頁)


葬式などの儀式には、その文化の死生観がよくあらわれる。

日本の生活曲線は、アメリカの生活曲線のちょうど逆になっている。それは大きな底の浅いU字型曲線であって、赤ん坊と老人とに最大の自由と我儘とが許されている。幼児期を過ぎるとともに徐々に拘束が増してゆき、ちょうど結婚前後の時期に、自分のしたい放題のことをなしうる自由は最低線に達する。この最低線は壮年期を通じて何十年もの間継続するが、曲線はその後再び次第に上昇してゆき、60歳を過ぎると、人は幼児とほとんど同じように、恥や外聞に煩わされないようになる。(293頁)


自由とワガママがもっとも許されるのは、幼児と老人。

もっとも許されないのは、結婚前後の年齢のひとたち。

そうだろうか、そこまでキレイなU字になっているだろうか?

日本の親たちが子供を必要とするのは、単に情緒的に満足を得るためばかりではなく、もし家の血統を絶やすようなことになれば、彼らは人生の失敗者となるからである。すべての日本男子は息子を得なければならない。(294頁)


だから女は子どもを産むことを期待される。

ただし、以前は「血統」にそれほどこだわっていなかったことも記しておくべきだろう。

「家」の存続こそが最大の関心事だったので、
子どもができない場合は養子をとることも盛んだった。

昔は、そして最近でも日本の辺鄙な村では、多くの娘が、時には大多数の娘が、嫁入り前に妊娠した。このような結婚前の経験は、人生の重大な仕事の部類には入らない「自由な領域」であった。(327頁)


地方の方が性的な関係は比較的「自由」だった。

夫がほかの女にうつつをぬかして、少しも自分を顧みてくれない時には、妻は日本人が一般に容認している手淫の習慣に訴えることがある。そして下は農村から上は高貴な人びとの家庭に至るまで、婦人はこの目的のために作られた伝統的な道具を秘蔵している。さらに田舎では、妻は子供を生んだ後ならば、かなり奔放にエロティックな言動をすることが許される。母親になる前は、一言も性に関する冗談口はきかないが、母親になった後は、そしてだんだん年を取るにつれて、男女混淆の宴席での彼女の談話には、そういう冗談がふんだんに出てくるようになる。(330頁)


地方に行くと、スケベな昔話がたくさん残っている。

このように日本の婦人は、性的な事柄に関しても、ある種の自由が許されている。しかも、生れが賤しければ賤しいほど、ますます多く自由が認められる。(330頁)


他方で、「世間の目」を強く意識させる教育が行なわれる。

6、7歳以降しだいに、用心深くふるまい、「恥を知る」責任が課されるようになり、しかもそれは、もしその責任を果たさなければ自分の家族のものから擯斥されるという、最も強力な強制力によって支持される。……こういうふうに発展してゆく素地は、特権的な幼児期からすでに、あの執拗にくり返されるどうしても免れることのできない用便の習慣と正しい姿勢のしつけによって、また両親が子供を捨ててしまうと言ってからかうことによって準備されてきた。こういう幼児の経験が、「世間の人びと」に笑われ、見捨てられるぞと言い聞かされる時に、子供が自分に課されたはなはだしい拘束を甘んじて受け容れる素地を作る。(332頁)


ひとびとは、世間から見棄てられることをもっとも怖れることになる。

時には、こらえにこらえた鬱憤を爆発させ、極度に攻撃的な行動をする場合もある。彼らがそのような攻撃的態度にかり立てられるのは、アメリカ人のように、自分の主義主張や自由が脅された時ではなくて、侮辱、もしくは誹謗されたと認めた時である。その時、彼らの危険な自我は、もし可能ならばその誹謗者に向かって、そうでなければ自分自身に向かって爆発する。(340頁)


いまでもこの感覚は残っているのだろう。

ネット右翼の連中は、日本が諸外国に批判されると、
まるで自分自身が誹謗中傷されたかのように感じているのだから。

総じて、日本人の価値観の特徴をまとめると、次のようになる。

……日本人のように、極端に機会主義的な倫理をもつ国民……。(358頁)


極端なオポチュニズム。

風見鶏のように風向きが変われば態度を平気でころころ変える。

もしロシアとアメリカとが、今後数年間を、攻撃のための軍備拡充の中にすごすならば、日本はその軍事知識を利用してその戦争に参加するであろう。だがしかし、そのような確実性を認めるからといって、私は決して、日本が本来、平和国家となる可能性をもっているということに対して、疑いを抱いているのではない。日本の行動の動機は機会主義的である。日本はもし事情が許せば、平和な世界の中にその位置を求めるであろう。もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう。(366−367頁)


長くなったので、拾い読みはこれでおしまい。

本書は、それなりに読んで楽しめるものである。

だが、見逃すことのできない大きな影響も与えた。

その後異常なほど出版されることになる「日本文化論」のキッカケになったのだ。

これは現在もつづいている。

どこの書店に行っても、「日本人論」のコーナーがある。

日本人が、「日本文化」とは何かを書いて、いかに独特な文化であるかを述べ、
それを日本人読者が読み、日本人の独特さを再確認し、ある種の快楽を得る。

こうしたマスターベーションが現在にいたるまで延々とつづけられることになる。

本書に対する批判は、あらためて紹介する。






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