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zoom RSS 大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)E

<<   作成日時 : 2009/05/19 13:08   >>

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ファシズムのような現象はどうして起きてしまうのだろうか?

ファシズムは、いたって現代的な現象である。

さらには今日的な現象である。

スローターダイクは、シニシズムを、ドイツのワイマール期の、つまりナチズムを育成した時期の心性の特徴だとし、さらに、これと同じ心性が、1970年代以降のドイツにおいても支配的である、とする。シニシズムとは、単純な嘘、迷妄、(通常の)イデオロギーに続く虚偽意識の第四の形態である。先立つ三つの虚偽意識に対しては、啓蒙の戦略によって対抗することができる。シニシズムは、啓蒙が有効ではないということによって、他の虚偽意識から識別されるのである。というのも、それは、最初から啓蒙された虚偽意識だからである。シニシズムとは、それが嘘であること、たとえば特殊な利害によって歪曲されていることを十分に知っていながら、なお――実践の上では――その嘘を放棄しない態度のことである。……たとえば、典型的なのは商品の宣伝である。われわれは、それが商品を売りたい企業の利害に規定されたという意味での「嘘」であることを知っているが、なお、それに影響されて行動するだろう。
もし、シニシズムがファシズムの心性の特徴であるとするならば、確かに、それは、ポストモダンの相対主義の特性でもあろうし、また現在の若者文化――たとえば「オタク」の文化――に支配的な態度にも見出されるということになるだろう。(689−690頁)


シニシズムに支えられたファシズム。

シニシズムこそ、今日のナショナリズムを支えている態度である。

イタリアのファシズム。

ドイツのナチズム。

日本の天皇制ファシズム。

ここで注意しなければならないのは、
ファシズムを戦時中の特異な体制と捉えてはいけない、ということだ。

筆者はこの点に注意を促す。

……ドイツに限ったとしても、強制収容所を最初に造ったのは、ナチス政権ではなく、それに先立つ社会民主主義政権であった。1923年に建造された最初の強制収容所は、主として、共産主義テロリストを監禁することを目的としていた。……
 最初の強制収容所は、スペインが、19世紀末に、キューバに、植民地の暴動を抑えるために建造した収容所であるとも、あるいは、イギリスが、20世紀の冒頭に、ブーア人を封じ込めるために建てた収容所であるとも言われている。(696頁)


だからファシズムは、たったいま、この現在の問題でもあるわけだ。

では、どのような状況でファシズムは生まれてしまうのか?

どのような状況でドイツのナチズムは生まれてしまったのか?

このとき、人々を襲うのは、代表制に対する根本的な欲求不満である。人々は、――制度上は自身の代表を民主的に選ぶ権利が与えられていてもなお――、政治的な意思決定の場において、自らが誰によっても代表されていないという欲求不満を覚えずにはいられない。こうして、代表制は、参政権へのいかなる制度的な整備によっても解消できないような、機能障害に陥らざるをえないのである。ファシズムは、こうした代表制の機能障害を基礎にして出現する。(761頁)


自分は誰にも代表されていないという欲求不満。

これは、いまの日本の有権者のほとんどが抱いている感覚なのではないか。

このような短期間にナチスが成功しえたのは、ナチスがある特定の利害を代表したのではなく、人々の間に一般的に分有されていた、「代表されていない」という疎外感を代表したからである。つまり、国民社会主義ドイツ労働者党の成功は、代表制を支える多党制そのものの失敗を表現していたのだ。(773頁)


代表制民主主義が機能しているかどうかが問題なのではない。

代表制そのものが失敗しているという点が、もっとも重要なのである。

一般には、普通選挙によって、代表制は最も完備したものに至ると考えられている。だが、柄谷行人も強調しているように、むしろ、普通選挙によって、代表制は、根本的な困難に遭遇することになるのだ。つまり、代表制は、完成に至ったときにこそ、自己否定に導かれるのだ。普通選挙以前には、すなわち身分制代表議会や制限選挙においては、代表する者と代表される者の間には透明な対応関係があった。……だが、普通選挙に至って、代表する者と代表される者との間の対応関係が不透明化し、恣意的なものとなる。……こうして、普通選挙が導入されると、人々は、自らが代表者に裏切られたと――したがって自らが代表されていないと――感ずる蓋然性が出てくるのだ。(801頁)


政権交代可能な政治システムをつくれば日本はもっとよくなる、とひとは言う。

日本の場合は政権交代さえ起きないのだから、それはあった方がいい。

あった方がいいに決まっている。

しかし、政権交代こそが民主主義の最重要ポイントであるとするのは、誤りだ。

アメリカをはじめ、各国が直面している困難はここにある。

さて、これまでナショナリズムとファシズム、レイシズムなどとの関連を見てきた。

ナショナリズムを乗り越えるためには、どうすればよいのか?

何が必要になってくるのか?

ここで筆者は、ユダヤ教とキリスト教を取り上げる。

ユダヤ教にこそ、
ナショナリズムを成り立たせているのと同じ機制が見られるからだ、という。

ということは、ユダヤ教からキリスト教が成立したように、
ナショナリズム克服のカギはキリスト教にあるのではないか、というのだ。

そうであるとすれば、われわれは、ユダヤ教からキリスト教への移行に、ナショナリズムからの解放のモデルを見出すことができるのではないだろうか。……ユダヤ教とキリスト教の対立は、「法」と「愛」との対立である。(815頁)


ユダヤ教の「法」にかわって、キリスト教の「愛」(アガペー)が置かれる。

ここで筆者は、「キリストの殺害」という「奇妙なエピソード」に注目する。

キリストが死ぬことによって、人類はその罪から解放されて、神から赦された、ということになっている。だが、なぜ、神は、人間を赦すにあたって、まず自らの子を殺す必要があったのか? 神は、直接に人間を赦してくれればよいではないか?
 しばしばなされている普通の説明はこうである。キリストが十字架上で殺されることによって、人々の回心が生ずるからだ、と。神が、その最も重要なものを犠牲にしたとなれば、われわれは、神のありがたみに気づかざるをえず、神への信仰に目覚め、またそれを強化することにもなるだろう、というわけである。だが、この説明は、決定的にまずい。そうだとすると、神への愛は不完全なものになってしまうからである。それは、無償の愛ではなくなってしまう。神自身が、人間に愛されたがっていた、ということになるだろう。誰かが、他人からの愛を報酬として受けるために、その子を犠牲に供しているとしたら、どうであろうか。こうした人物を、われわれは無条件に尊敬することができるだろうか。(818頁)


キリスト教には、「キリストの殺害」をもたらす何かが必然的に備わっている。

それを差し当たって「裏切りを通じた愛」と筆者は言う。

この事実が暗示しているのは、ナショナリズムや原理主義が構築するような共同性を越える普遍性に到達するためには、特異的な出来事が、つまり裏切りによって生じた殺害という出来事が必要だ、ということである。ここに、普遍性と特殊性の接続の究極のケースがある。(819頁)


これをまとめると、「否定的・逆接的に関わるような愛の形態」となる。

この「愛」は、わたしたちが日常的に使う「愛」のイメージとは異なる。

恋愛の場面に見られる「愛」とは異なる。

それではどう異なるというのだろうか?

他者の特異的な美点のゆえに愛するのではなくて、特異的な欠点にもかかわらず愛するのだ。(824頁)


わたしたちはふつう、誰かを「特異的な美点」のゆえに愛する。

「うつくしいから」そのひとを愛する。

「かわいいから」そのひとを愛する。

「かっこいいから」そのひとを愛する。

「やさしいから」そのひとを愛する。

「お金持ちだから」そのひとを愛する。

しかし筆者の言う「愛」、そしてキリスト教的な「愛」は、そういうものではない。

つまりは、欠点への過剰な愛の内にこそ、普遍的な愛への可能性が宿っているのだ。(826頁)


これが、「にもかかわらず愛する」ということの内実である。

神=キリストを殺害してしまうということは、神が弱き者であったことを示すこと、神を人間化することにほかならない。(826頁)


それ「にもかかわらず愛する」のである。

あなたを見棄て、裏切りたくさせるような否定的な性質をあなたは有しているにもかかわらず、あなたを愛するのである。だから、ときに、あなたを裏切りうること、何かのために犠牲にすることができるということ、こうしたことが、あなたを真に愛していることの証ともなりうるのだ。(827頁)


こうして筆者が辿りついた結論は、次のようなものだった。

真の愛、普遍的な愛の可能性とは、第三者の審級(神)を内在的な他者(人間)へと還元することを媒介にして拓かれるのだ、と。(827頁)


すると、筆者は明示的に答えているわけではないのだが、
ある種の「メシア」の到来までひたすら「待つ」ということを結論としているのだろうか?

さまざまな分野・事例を縦横無尽に論じていくところに、
この筆者の魅力はある。

マルクス主義を採用しないとなると、こういう結論になるのかもしれない。

しかし、本書に対する最大の疑問を呈するとすると、
逆に、筆者はなぜマルクス主義を採用しないのか、という素朴な疑問に辿りつく。

さまざまな事象の論理的類似性に着目する一方、
物質的根拠への言及があまり見られないのが特徴でもある。

ああ、長かった。

おしまい。








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