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zoom RSS 大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)C

<<   作成日時 : 2009/05/17 11:55   >>

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ナショナリストは、自分たちの感情と主張を「自然なもの」であると強弁する。

「北朝鮮は許せない」

「中国や韓国の『反日教育』は許せない」

「日本がイヤなら日本から出ていけ」

その感情は日本人として「自然なもの」であると言い張る。

しかし、誰でもちょっとだけ考えてみれば分かることだが、
彼らのようなナショナリストが世界中に増えることは世界にとって悪夢だ。

「ネーション」の威力を感得するには、20世紀の二つの世界大戦のことを思うだけで十分だ。人は、これらの戦争で、人間が異常な数に上る他の人間たちを殺したことに驚きを示してきたが、同様に、とてつもない数の人間たちが、自らの命を自国のために差し出してきたことに驚かなくてはならない。(392−393頁)


ナショナリズムが徹底的に批判されなければならないのは、
それが戦争や数々の暴力と結びつくからである。

繰り返しになるが、ナショナリズムのパラドクスをまとめてみよう。

ナショナリズムには、三つのパラドクスがある。第一に、ネーションは、歴史家の客観的な眼からは近代的な現象と見えるにもかかわらず、ナショナリストの主観的な眼には、古代から続いてきた実体と映る。第二に、文化的概念としてのナショナリティは、形式的には普遍的なものだが、内容的にはきわめて多種多様で、常に特殊なものである。この第二のパラドクスがすでに見てきたナショナリズムの両義性(普遍主義と特殊主義の交錯)の現れのひとつであることは容易に理解できよう。実は、第一のパラドクスは同じ両義性の時間的な表現として解釈することができる。以上の二つのパラドクスは、それゆえ、ナショナリズムの両義性の、それぞれ、通時的、共時的な表現である。第三のパラドクスは、ナショナリズムは、哲学的にはまったく貧困なのに、政治的には大きな影響力をもってきた、ということである。ところで、哲学的な無内容さと社会的な影響力との乖離によって特徴づけられるイズム(主義)が、もうひとつある。資本主義だ。(395頁)


ナショナリストたちに、このことをまずは教えてやらねばならない。

ナショナリストは、自分たちの感情を自然なものだと考えているだけではない。

自分の国はナショナリズムにもとづいて構成されており、
そうあらねばならないと考えている。

日本は日本人の国であり、それが当たり前だと考えている。

筆者は、山内昌之の本から、
ナショナリストにとっては思いもよらないエピソードを紹介している。

露土戦争のあとのベルリン会議(1878)のときのことだ。

ベルリン会議を主催したドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクは、そこで衝撃を受ける。

ビスマルクの交渉相手である、オスマン帝国の全権代表は、2人の外交官であった。この2人に会ったときビスマルクは強い衝撃を受けたのだという。全権代表の内の1人はカラトドリ・パシャは、名門出身のギリシア正教徒であった。……もう1人の代表メフメド・アリー・パシャは、父としてフランス人を、母としては何とドイツ人をもつ混血児であった。しかも、彼の生まれ故郷は、ビスマルクの所領シェーンハウゼンのごく近く、マグデブルグだった。(115頁)


ナショナリストたちよ、動揺するがよい。

「オスマン・トルコの全権代表といえば、トルコ人でイスラム教徒であるはずだ」

ナショナリストたちはそう思い込む。

しかし、全権代表の1人はムスリムではなく、もう1人は生粋のトルコ人でさえなかった。

日本の公務員は日本人でなければならないと思い込んでいるひとたちは、
この「意外な事実」に動揺するがよい。

そして、これと似たエピソードが最近もあったという。

ビスマルクが体験したのと同じタイプの出会いを、オスマン帝国が解体してから約70年後、合衆国の国務長官ジェームズ・ベーカー3世が反復することになる。1991年1月、湾岸戦争の直前、ジュネーヴの外相会議の席に現れたイラクの外相は、タリーク・アズィースであった。この辣腕の外交官は、アッシリア人の家に生まれたキリスト教徒であり、ムスリムではなかった。スンナ派アラブ出身の大統領の直下の部下が、キリスト教徒だったのだ。(419−420頁)


ナショナリズムがひとびとの心理を侵食している実態を解くには、
「地図」がどのように利用されてきたのかを考えなくてはならない。

「地図」は視覚的に「ネーション」の存在を刷り込む装置だからだ。

わたしたちは、毎日「日本列島」の形を確認している。

天気予報で毎日「日本列島」の形を刷り込まれている。

しかし、あの「日本のかたち・すがた」が自然なものと言えないことは言うまでもない。

日本の場合、国境は、海に合致しているために、他の国民の場合よりも「自然化」される傾向が強い。しかし、大陸や大きな島を分割する国境の場合は、そこに究極の根拠がないことは、はるかに見やすい(……インドネシアの場合等を想起せよ)。翻って考えれば、日本の場合でも、たとえば琉球が中国ではなく日本に所属するように国境線を設定すべき究極の理由などどこにもない。(422頁)


インドネシアに関連して、筆者は興味深いことを指摘している。

インドネシアとインドシナの2つの事例を比較すると、おもしろいことが分かるというのだ。

オランダ領インドネシアは、一つの国民を結晶したのに、フランス領インドシナは、三つの国民(ベトナム、ラオス、カンボジア)に分解したのは、なぜなのか? アンダーソンの示唆に従って、この社会学的な理由を考えてみると、巡礼がその参加者たちにどのような心理的な影響を与えるものなのかがわかってくる。(428頁)


長くなるので説明は省くが、ナショナリズム形成に絡む歴史的要因である。

さて、ナショナリズムのほかに近年注目を集めているのが「原理主義」である。

キリスト教原理主義やイスラム原理主義。

ときに、活動的なナショナリストは、同時に原理主義者である。あるいは、民族の大義への没入の態度は、原理主義者の宗教的な帰依のあり方と、よく似ている。(524頁)


ナショナリズムと原理主義は、同じ時代の空気を吸って成長している。

なぜ1990年代半ばにオウム真理教事件が起こったのかも、
これと同じ文脈において理解されなければならない、と筆者は述べる。

資本主義は極限まで発展してきた。

そこで起きたのが、「終わりの終わり」である。

これを筆者は「第三者の審級の退去=内在化」と呼ぶのだが、
むずかしい話に突入してしまうことになるので、
それに関連するいくつかの話を代わりに取り上げておこう。

かつて「人種のるつぼ」に喩えられていた頃のアメリカについての標準的な理解では、個別の民族的(エスニック)な痕跡を払拭し、それを、より普遍的な「アメリカ的なもの」への忠誠へと昇華させることが鍵であった。イタリア系であろうと、アフリカ系であろうと、中国系であろうと、同じアメリカ人であることの、個別的なバリエーションであると見なされたのである。(537頁)


ところが、現在のアメリカは「人種のるつぼ」ではなく「サラダ・ボウル」と呼ばれる。

それはどうしてなのか?

個別の特殊な民族的な根が、「アメリカ」という普遍的な大枠の中で解消されることがないからだ。こうした状況を、B・アンダーソンは、「イタリア系アメリカ人」「アイルランド系アメリカ人」「アフリカ系アメリカ人」といった接続において、かつては後半(アメリカ人)が重要であったのに、現在では前半(……系にあたる部分)に重心が移った、と表現している。(537頁)


これと同じようなことが、ある意外な現象にも見出せるという。

いわゆる、若者の「引きこもり」問題である。

引きこもりをする若者たちは、他者を極度に恐れて、個室・密室へと退却していく。言い換えれば、密室への私的な撤退と、他者からの侵入の恐れとは、同時進行的に高まっているのである。徹底は必ずしも安全や安心を与えず、むしろ、撤退と恐怖は表裏一体で、互いに高めあっているようにすら見えるのだ。……「引きこもり」は、……多くの「先進的な」資本主義社会に見ることができる。たとえば、フランシス・ファーガソンは、1980年代の半ばに……「密室恐怖」が現代社会で蔓延している、という事実を指摘している。その中には、喫煙が周囲の者に与える危害への過剰反応や、幼児虐待への強迫的なまでの拘り等が含まれている。ここで生じているのは、他者をおそれて隔離された密室へと撤退するのだが、そのことがますます、他者の潜在的な恐怖を高めるという悪循環である。(538−539頁)


こういうところがいかにも大澤真幸らしいところである。

ほんの数年前までタバコの煙を何とも思っていなかったひとたちが、
いまでは潔癖なまでにタバコの煙を嫌うようになっている。

これをコミュニケーションの視点から捉えるとこうなる。

……個人間のコミュニケーションの極限的な直接性とでも呼ぶべき現象……。……「極限的な直接性」によって特徴づけたコミュニケーションとは、自己が自己であることの最小限の根拠が、自己がまさにここにいるということそのこと自身が、〈他者〉性を帯びることで成立するコミュニケーション、つまり、言語的な把握以前のところで、ここにいる自己の身体そのものに〈他者〉が侵入してきていると感受されるようなコミュニケーションのことである。こうした〈他者〉の侵入が、〈他者〉からの一種の暴力と感覚されたとき、「引きこもり」や「密室恐怖」が生ずるのである。(539頁)


ここで「引きこもり」を自分とは別種のひとたちのことだと思ってはいけない。

「引きこもり」だけを現実世界から「逃避するひとびと」と捉えてはいけない。

日本人は、いまやまるごと「引きこもり」状態にあるからである。









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