フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)B

<<   作成日時 : 2009/05/16 10:03   >>

トラックバック 0 / コメント 0

1990年代以降、グローバリゼーションの時代と言われるようになった。

もっとも、そのような見方は狭すぎる、という意見もある。

グローバリゼーションは15世紀からはじまっていた、という意見である。

ともあれ、1990年代からグローバリゼーションという言葉が頻繁に使われるようになった。

資本は国境を超えて活発に移動する。

「資本主義が世界に拡大すれば、ナショナリズムは無意味なものになるだろう」

そう考えるひとがかつていた。

いまでも凡庸な経済学者はそのように言うかもしれない。

しかし、日本では1990年代になってまたナショナリズムが高揚する。

……日本に関しても、1990年代の文化運動の総体を「J‐回帰」と特徴づけることができる……。「J‐回帰」の「J」とは、「J-pops」とか「J‐文学」あるいは「Japanimation(Japanese animation)」などで使われる「J」である。(439頁)


「新しい歴史教科書をつくる会」といった破廉恥な集団も発生する。

なぜ冷戦終結とともにナショナリズムが再登場したのか?

なぜグローバリゼーションの時代にナショナリズムが再び高揚しているのか?

この時期のナショナリズムを筆者は「最後・後の波」と呼ぶ。

19世紀に現れたナショナリズムとは、人民を「国民化」していく運動であった。アンダーソンの「最後の波」も、これと同じ範疇に属するナショナリズムである。それは、植民地の行政単位下にあった人民が国民化したことの直接の帰結と解釈することができる。だが、20世紀末のナショナリズムは、「国民」を上位および下位の二つの水準へと向けて解消しようとしているように見えるのだ。
 第一に、最後・後の波は、国民の民族化として現れる。すなわち、それは、国民−国家を、民族――エスニシティ――という、共同性のより細かい単位へと分解していく運動として現れるのである。かつてのナショナリズムは、局地的な共同性を「国民」というより包括的な共同性へとまとめあげていく圧力として作用した。だが、今日のナショナリズムは、この人民の国民化とちょうど反対方向の圧力を加えてくる。このことは、国民を構成してきた人々が、それ以前にはさして関心をもたなかった細部の差異に――以前の規準からみればほとんど無に等しいような差異に――、突然、敏感になり、自己/他者の同一性(アイデンティティ)を規定する核的な構成素の内にそれを組み込むようになる、ということを含意している。こうした差異が結晶させる共同性が、エスニシティ(民族)である。20世紀末期の新しいナショナリズムは、主として、「エスノ・ナショナリズム」として現れているのである。
 ……もう一つの第二のベクトル……。すなわち、「最後・後の波」の中のエスノ・ナショナリズムは、国民−国家を、インターナショナルなより大きな政治単位の内に解消していこうとする指向性と同時代的に共存し、さらには直接に連動しているのだ。こうした指向性を代表する典型は、ヨーロッパ共同体である。……あるいは、イスラーム復興運動のような国際的なイスラーム教の運動もまた、こうした現在の指向性を代表する事例の内に数えておくことができるだろう。(445頁)


つまり、近年のナショナリズムは、
かつての近代初期のナショナリズムとは質的に断絶しているというのである。

人種なき人種主義は、生物学的特質によってではなく、文化的特殊性によって「人種」を規定する……。……だが、文化的差異に立脚する「人種なき人種主義者」は、それでも人種主義者であると、見なさざるをえない。(453頁)


「人種なき人種主義」。

文化によって人種を規定するレイシズム。

バリバールの議論を筆者は取り上げているのだが、
以前このブログでも紹介したヴィヴィオルカの議論を想起するひともいるだろう。

どういうことか?

現在、異民族や異人種との共存をはかるのが「多文化主義」だと言われている。

同化主義はひとつの政治社会のなかで異なる文化の存在を認めないが、
多文化主義はさまざまな文化が平和的に共存することを図っている、と言われる。

しかし、多文化主義もじつは人種主義の産物だ、というのである。

……人種主義やナショナリズムの最も明白な反対者であると自他ともに認めている立場、つまり多文化主義multiculturalismが、ときに、人種主義やナショナリズムのもう一つの仮面でもありうる、という事実が明らかになってくる。多文化主義とは、多様な文化を単一の文化へと同化することなく、相互の承認・尊重に基づくそれら諸文化の共存を唱導する立場だが、その際、そうした文化的な差異の導入が、私的な領域にだけではなく、公的な領域にまで及ぶべきだとする点に特徴がある。……たとえば、公用語として多言語を用いること、公教育において、西洋史に収斂する歴史だけではなく、それぞれの文化や共同体の視点からの歴史を教えること、等々が、多文化主義的な政策の典型である。多文化主義は、1970年代にまずはかつてイギリスの植民地だった地域――カナダ、オーストラリア、アメリカ合衆国――で唱えられ、ついでヨーロッパに導入された。(455−456頁)


文化的差異の導入。

多文化主義は、諸文化が単一の公共的な文化の内に統合され、同化される可能性を否定している(こうした差異の強調が、多文化主義を、(人種なき)人種主義に近づけることになる)。(456頁)


多文化主義政策は、だから、それぞれの文化的集団を孤立させる。

要するに、異なる共同体は可能な限り相互に隔離された形態で共存することが最も望ましいということになるだろう。だが、これは、いわゆるアパルトヘイトと同じ状態ではないか。多文化主義が最終的に肯定する状態は、最悪の人種主義と同じものになってしまうのだ。(457頁)


多文化主義がアパルトヘイトへとつながる、という指摘は極端であろうか?

実際アメリカでは、ゲーテッド・コミュニティが問題になっている。

アメリカ国内にアパルトヘイトが出現しているのである。

ここでナショナリストが外国人労働者に対して抱く感情を整理してみよう。

ナショナリストは、たとえば、次のように主張する。移民によって「われわれ」の失業率が高まっている、と。外国人労働者が「われわれ」の労働を奪っている、というわけである。だが、外国人へのこうした非難は、実は矛盾した感情を背景にもっている。もしこの非難の通りであるとすれば、好景気で仕事が十分にあるときには――外国人の労働力が特に必要とされているときには――、外国人がいてもよいということになるはずである。ところがこのときはこのときで、移民等の外国人はやはり非難されるのである。いわく、怠け者の彼等は、われわれの労働の成果にただ乗りしている、と。いわく、彼等は、われわれの生活様式の内にある美習を侵食する、と。……要するに、この両方向からの外国人労働者への批判は、外国人は、労働していても、していなくても、批判されるということである。このことが意味しているのは、無論、原因が外国人の方にあるのではなく、それを知覚する「われわれ」の側のスタンスの内にある、ということだ。(460頁)


重要な指摘である。

外国人労働者は、何をしても、何もしなくても、非難されるのだ。

わたしがこのブログで外国人労働者の人権について記事を書いたときも、
これに激しく反発して支離滅裂なコメントを寄せてきたひとがいた。

問題の原因は、外国人労働者の側にはない。

原因は、「われわれ」の側にあるのだ。

ではなぜ外国人は非難されてしまうのだろうか?

ここで筆者は、日本嫌いのアメリカ人によるジャパン・バッシングを取り上げる。

そして、ジャパン・バッシングと日本人の外国人差別に共通点があることを指摘する。

同じ心理的メカニズムから生じていることを指摘する。

どういうことか?

詳しくは本書に当たってみていただきたい。







テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)B フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる