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zoom RSS 大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)A

<<   作成日時 : 2009/05/15 15:15   >>

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このあたりから、初心者には分かりにくいかもしれない。

ただていねいに説明していると大変な分量になってしまうので、
不親切な拾い読みになることをあらかじめお断りしておきたい。

興味をもった方は、ぜひ本書を手に入れて、読んでみていただきたい。

さて、「国民」という単位には確たる基準も根拠もない。

しかし、ひとびとは自分が「日本人」であることに何の疑いも抱かない。

それにはそれなりの根拠がある。

この秘密を解き明かすカギは、経済にある。

経済ほど、国民が、あるいは国民−国家が、自明の準拠点と見なされている領域はほかにないだろう。われわれは、経済に関して、国民−国家の単位で運命共同体をなしているかのように、自他を思い描く。たとえば、所得水準や総生産を、国民−国家の単位で主題化する。単に一個人や一企業ではなく国民−国家の水準で経済成長することが、規範にまでなっているからである。この規範からは当然、われわれが、経済成長を競い合う世界的なレースに、国民−国家の単位で参加しているかのような直感的なイメージが出てくる。また経済成長の規範は、諸個人の利益が国民の経済成長に規定されている、という前提によって正当化されている。(219頁)


「日本経済のゆくえ」などとよく言われる。

「国民総生産」などとよく言われる。

「国益」などと言われる。

こうした日々の知識によって洗脳されてしまうのだ。

しかし、「国民経済」という概念も、当然のことながら新しい現象である。

今日のような国民経済という考え方が現れるのは、まさしくわれわれがナショナリズムの本格的実現の時期と呼んだ段階、すなわち18世紀末から19世紀にかけての時期である。(220頁)


18世紀以前にはそのような観念も概念もなかったのである。

ロバート・ライシュによれば、経済的なナショナリズムは、資本主義的な大量生産によって支持されている。大量生産は、これに見合った需要をどうしても必要とする。これに対する解決策が国民国家を準拠として図られるのである。第一に、国民−国家の内へと向かう政策が採られる。経済的な保護主義がそれである。しかし、この政策は、関税を課された商品を購入せざるをえない他の国内企業の費用を増大させるので、得策ではない。第二に、外へと向かう政策がある。すなわち帝国主義的な拡張による市場の獲得が目指される。しかし、これは世界大戦にまで至る悲惨な戦争を帰結する。
 そのため、ヨーロッパや日本で最終的に19世紀末頃に採られた方法は、政府の力で主要な製造業者をまとめあげ、投資と借入、原材料の購入や商品の販売、価格の固定化を共同で行うようなグループを作ることだった。つまり、国民経済と同一の規模をもった、企業(法人)のネットワークを作り上げてしまうわけだ。(220−221頁)


だが、アメリカでは異なった動きが見られたという。

しかし、合衆国ではこうはうまくいかなかった。公的な方法で企業の統合体を作ることは、権力の濫用であると懸念されたからである。……
 ……合衆国で代替的に採用された方法は、……カルテルのような方法で企業(法人)のネットワークを作ることが禁止されているならば、複数の企業が直接に合併してしまい、単一の企業になってしまえばよいのである。こうして、アメリカでは、主要産業部門ごとに、二つ三つの中核的な大企業が誕生することになった。……これらの企業は、自らをネーションと同一視している。また、政策担当者も国民も、これらの企業の発展こそが、国民経済の成長の条件であると見なし、これにそった政策が支持されたのである。このような認知は、これらの企業の名前によく象徴されている。USスチール、アメリカン・シュガー・リファイニング、ユナイテッド・ステーツ・ライバー、アメリカン・タバコ等々。さらに普遍的な共同体への志向を表明する名前もある。ジェネラル・エレクトリック、ジェネラル・モーターズ、インターナショナル・ハーヴェスター等。(221−222頁)


日本の企業は、創業者の名前を企業名にすることが多い。

「国民経済」を意識したのは「ナショナル」、その他。

「ネーション」を強く志向したのがアメリカだったことは、重要な点だ。

われわれはヨーロッパの俗語ナショナリズムを、ナショナリズムの最も基本的な形態として最初に分析した。ヨーロッパこそ、ナショナリズムの故郷である。にもかかわらず、南北アメリカという移植されたヨーロッパにおいて、むしろ、最初にヨーロッパ的な観念としての「ネーション」が結晶しているわけだ。(267頁)


これに関連して、おもしろいことがイギリスで見ることができる。

イギリスの現在の王朝であるウィンザー家は、もともと「ハノーヴァー家」であった。彼らがウィンザー家になったのは、第一次大戦中である。「ハノーヴァー」という名前は、彼らがドイツ由来であることをただちに想起させる。しかし、第一次大戦でイギリス・ナショナリズムが高揚する中、彼らは「ウィンザー」といういかにもイギリス風の名前を選択することを余儀なくされたのである。しかし、考えてみると、大英帝国は、11世紀以来、常に外国人の王朝によって支配されてきたのだが、そのことが問題になったことは、それまで一度もなかったのだ。(285頁)


この事実は、世界史の勉強をしたことのあるひとなら、知っていることであろう。

そして、日本史を学んだひとには、「天皇制」がただちに想起されるはずである。

ちなみに、天皇家がなぜ苗字を持たないのかは、興味深い問題である。

ともあれ、ナショナリズムの考察には資本主義とのつながりがポイントになる。

ゲルナーとアンダーソンの議論を統合する構図として示唆された仮説は、俗語の普及にともなうナショナリズムの成立(図)は資本主義化の社会変動という基盤(地)の上で理解されなくてはならない、ということ……。(304頁)


繰り返せば、資本主義は歴史的に形成されたものである。

資本主義は、たんなる「金儲け至上主義」ではない。

「金儲け」なら近代以前にも存在していた。

では、資本主義が成立するための条件とは何か?

次の三つの条件が同時に満たされるとき、経済的な意味で資本主義が成立している、と見なすことができるだろう。第一に、労働力を売る(売らざるをえない)賃金労働者が存在すること、第二に、彼らを雇用して利潤を追求する企業が存在すること、第三に、土地や労働力の商品化を含む、貨幣経済=市場交換が一般化していること。(305頁)


私的所有権は、権力という暴力手段を背景にして成り立ち、保障される。

所有権とは、特定の対象に関わる行為のある領域に関して、いかなる束縛も受けずに自由に選択することの保証である。(305頁)


利潤を追求することは、かつては禁止されていた「いやしい行為」である。

……西欧のキリスト教圏では、宗教改革以前は、利子を取ることは強く禁止……。「何も求めずして貸せ」(ルカ伝6・35)……。1179年のラテラノ公会議は、利子を取った者はキリスト教徒として埋葬できない、ということを正式に決定しており、1274年のリヨン公会議がこの決定を追認している。(311頁)


資本制システムが拡大していくにつれて、貧困が生み出されていく。

ごく素朴には、貧困の原因は、貧困地域や貧困層が(資本主義に規定された)産業化の社会変動の外部にとり残されたことにあると考えたくなる。しかし実際には、貧困は、貧困を被っている層が、産業化の外にあったから生ずるのではなくて、産業化を不可避なものとしたシステムの同じ論理のうちに、すでに組み込まれていることから生ずるのだ。貧困にあえいでいる地域も、産業化や資本制と無縁だった段階においては、まったく充足しており、貧困ではなかった。貧困は、その地域が、産業化を強いる社会変動の論理に、生産力の不断の向上を帰結する社会変動の論理に、要するに資本主義に内化されたときに始まるのである。この意味では、貧困は、資本主義的なシステムとその外部との界面で――厳密に言い換えれば、そうした界面に接する(システムの)内側で――生じている、と見ることができる。簡単に言えば、資本主義の力学の中では、富の過剰とその過酷な欠乏とが相互に依存しているように見えるのだ。ここに資本主義のジレンマがある。(326頁)


ここは、繰り返し読んで噛みしめるべきところである。

資本主義は、国民経済の範囲を超えて不断に拡張していく。

……そして資本主義的な世界システムは、中核coreと周辺peripheryの経済分業から成り立っていること……。(327頁)


勉強しているひとは、ここでウォーラーステインの世界システム論を思い出すだろう。

いわゆる「先進国」からなる中核だけが、剰余価値を取得し、資本蓄積に成功する。富の過剰と欠落の依存関係が、ここでは、中核と周辺の分業として現れているわけだ。さらに中核/周辺の関係は、経済的な搾取の関係をこえて、政治的な支配−従属関係をも随伴している。(328頁)


貧困を「募金」や「支援」で解決できると思うひとがいるとしたら、
そのひとは相当におめでたいひとである。

というより、資本制システムそのものを温存させているという意味では、
本気で「貧困」をなくそうと思ってなどいないひとたちである。

では、このような資本主義の矛盾を抱えながらも、
なぜ「ネーション」が西ヨーロッパで比較的うまく機能していたのだろうか?

ジョージ・モッセは、西欧の国民−国家は、――アメリカ合衆国を特記すべき例外として――ほとんどすべて、女性によって、自らを表象している、という事実に、われわれの注意をうながしている。フランスのマリアンヌ、ドイツのゲルマニア(あるいはその生身の対応物としての、プロイセン王妃ルイーゼ)、そしてイギリスのブリタニア。(333−334頁)


女性によってイメージされる国民。

ここでただちに想起されるのが、「母語」という言い方であろう。

ここにも「女性」が登場するのである。

なぜなのか?

それは本書を読んでください。

資本制とネーションに強い結びつきがあることは分かる。

しかし、だからといって、企業がつねに「国益」だの「国民」だののために動くわけではない。

……規範の普遍化の究極の担い手は、資本である。資本にとっては、宗主国も植民地化の(搾取の)対象である。(345頁)


宗主国さえ搾取の対象だ、というところが重要だ。

だから、次のようなことも起きる。

多国籍企業は、熱狂的な愛国主義者の思惑に反して、必ずしも「自国」の利益に合致するようには行動しない……。(346頁)


かつては、日本の企業に批判的な右翼もいた。

彼らから見れば、企業が「自国の利益」を損なっているように見えたからだ。

しかしいまの自称右翼たちには、そんな発想はまるでない。

たとえば「トヨタ」を称賛する自称右翼などがいるのである。

右翼の風上にもおけない連中である。

さて、議論のなかで筆者がさかんに使うのが「第三者の審級」という概念だ。

これは大澤真幸のお得意の概念装置だ。

だがこの説明はとばして、ネーションについてまとめておこう。

だから、ネーションは感情(とりわけ悲劇的な感情)の共同体である。近代以前のヨーロッパにおいては、一般的に、感情(感性)には、低い地位しか与えられてこなかった。感情は、知性とは異なり誤りの原因であると見なされたのである。ところが18世紀の後半から――つまりまさにネーションの成立期に――、感情を、悟性や理性といった知的能力の上におく議論が出てきた。このような議論が、美学aestheticsと呼ばれたのである。(382頁)


「国民」は、感情を共有する共同体としてイメージされる。

その感情は、肯定的なものも否定的なものも含まれる。

喜びを共有し、悲しみを共有する共同体としてイメージされる。

これが逆立ちすると、どうなるか?

感情を共有できないものは「非国民」である、となる。

では、このような暴力的で排他的なナショナリズムを、
「わたしたちはみんな同じ人間だ」という考え方で乗り越えられるのか?

そうではない、と筆者は言う。

だから、ナショナリズムは普遍主義によっては乗り越えられない。それどころか、ナショナリズムは、普遍主義的な社会変動によってこそもたらされるのだ。(387頁)


ナショナリズムは、普遍主義によっては乗り越えることができない。

なるほど。

こういう展開が、学問のしびれるほどおもしろいところである。






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