フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)@

<<   作成日時 : 2009/05/14 07:47   >>

トラックバック 0 / コメント 0

しばらく前に紹介すると予告しておきながら、放置していた本である。

大澤真幸『ナショナリズムの由来』」にもちらっと書いたが、
詳しく見ていくと、ものすごい分量になってしまう。

なにせ約900ページもある大著なのだ。

「自称愛国主義者」たちには到底読み終えることのできないボリュームだ。

かわいそうに。

というか、彼らには内容が理解できないと思う。

かわいそうに。

相当な分量なので、適当に拾い読みをしていこうと思う。

難解で専門的すぎるところは、拾わない。


******************************


本書はナショナリズムの研究書なのに、
なぜか著者がはじめに取り上げるのは「マルセル・デュシャン」である。

芸術家デュシャンは、「泉」と題する作品として「便器」を展示した。

なぜ「便器」が芸術になるのか?

この「便器」とナショナリズムはどのようなつながりがあるのか?

それは実際に読んでみてのお楽しみ。

さて、世界各地で民族紛争が勃発している。

ひとびとは民族意識や国民意識を高め、
民族や国家のために命を捧げようとする。

ナショナリティは、選択されたものなのだが、その選択は、生の時間幅を越えたところにすでに完了してしまっているかのように扱われる……。選択されたものでなくては、人は、それのために殉ずることはできない。たとえば、単に女であるとか、黒人であるとかいう性質だけのために殉死するなどということは、意味をなさない。フェミニズムとか、反人種主義とか、マルクス主義などのために殉死することはできるが、それが可能なのは、これらの思想がその殉死した当の人物によって、選択されたものだからである。(66頁)


ナショナリズムは、実際は「選択されたもの」である。

しかし、ナショナリストたちは、そうは思っていない。

彼らは「自然なもの」だと思っている。

自分の「民族」「国家」「国民共同体」にアイデンティティをもつのは、
自然なこと、当たり前のことだと思い込んでしまう。

国民国家は、18世紀末から19世紀の冒頭にかけて西ヨーロッパで誕生した。

だから、ナショナリズムも18世紀以降のきわめて「新しい現象」である。

ところが、ナショナリストは「民族」が大昔からつづいていたかのように錯覚する。

お気の毒さまである。

ナショナリズム論の名著といえば、
ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』である。

アンダーソンによると、ナショナリズムには3つのパラドクスがある。

 @ 歴史家の客観的な眼には国民(ネーション)は近代的現象にみえるのに、ナショナリストの主観的な眼にはそれは古代から続いている実体として現れている。

 A 文化的概念としてのナショナリティは、形式的には普遍的なのに、具体的には、手のほどこしようがないほどに特殊なものとして現れる。

 B ナショナリズムは強い影響力をもつのに、内容はまったく貧弱で支離滅裂である。

アンダーソンが述べているナショナリズムの三つ目のパラドクスとは、ナショナリズムは、政治的には大きな影響力をもつのに、哲学的には支離滅裂で、まったく貧困だ、ということである。ナショナリズムは、他のイズム〔主義〕と違って、いかなる大思想家も生み出さなかった。……
「ナショナリズム」は、個人における「神経症」と同様、近代発展史の不可避の病理であり、神経症と同じように本質的にあいまいで痴呆症へと陥っていくものであって、広く世界に蔓延した無気力感のジレンマに巣くったほとんど不治の病である。(81−87頁参照)


そうだ。

ナショナリズムは「病気」なのだ。

ということは、ナショナリストは「病人」だ。

ということは、ナショナリストは対話の相手ではなく、治療対象である。

ところで、アンダーソンは述べていないが、もう一つ、無内容でいかなる大思想家も生まなかったイズムがある。資本主義(キャピタリズム)である。ナショナリズムと資本主義とのこの並行性は、重大な示唆を含んでいる。(88頁)


まさにその通り。

ナショナリズムも資本主義も、無内容である。

そして、偉大な思想家をひとりも輩出しなかった「イズム」である。

両者の共通点はまだある。

両方とも、「自然なもの」として表象されることだ。

資本主義は歴史的に形成されたものだが、
ほとんどのひとがこれを「自然ななりゆき」だと思い込んでいる。

しかしネーションは決して自然な共同体ではない。

人工的な共同体である。

だから、そこには必ず「民族的少数派」という異質性を抱え込む。

民族的少数派とは、たまたまネーションが内部にかかえこんでしまった異和的な集団ではない。それは、どんなネーションも有する二つの条件の間の乖離から不可避に生ずる、ネーション内部の統合されざる残滓なのである。(94頁)


「二つの条件」とは、「平等性と不平等」のことである。

とはいえ、これだけだと何のことか分かりにくいだろう。

気になるひとは実際に読んでいただきたい。

次に、筆者はとてもおもしろい話を取り上げている。

不思議に感じたことはないだろうか?

どうして中南米では白人と現地人の「混血」が進んだのに、
北米ではあまり「混血」が進まなかったのか、ということを。

これについて、筆者は説明を与えている。

ちなみにこの現象は、中南米では外来ヨーロッパ人と原住民との混血が比較的速やかに進んだのに、北米では混血が――つまり原住民とヨーロッパ人の結婚が――相対的に稀だったのはなぜか、という問題と関係がある。想起すべきことは、次のことである。中南米に進出したヨーロッパ人は、旧ヨーロッパの(中世以来)キリスト教共同体の成員としての資格でそれを行っていた。つまり、彼らは、……広義の帝国的な秩序に属している。他方、北米に進出したヨーロッパ人も、確かにまずはキリスト教徒ではあったが、彼らは、旧来のキリスト教共同体に抗議する者たち(プロテスタント)だったのである。言い換えれば、彼らは、帝国的な共同体からの離反者だったのだ。(156頁)


帝国は身体を変質させるのである。

……帝国が多様な身体に対して錬金術的な吸収力を発揮しえたのはなぜか……。それは、帝国(や宗教共同体)を可能にした規範が、広範な「外部」を残存させていたからなのである。(162頁)


帝国は、不完全な普遍性を有しているのである。

そしてこのことは、世界宗教にも言えることである。

……世界宗教は、実践的には、普遍主義として機能した、と言えなくはない。だが、世界宗教がその影として「外部(外延的・内包的外部)」を残存せざるをえないという事情は、それが不完全な普遍主義であることを意味しているだろう。しかし、……まさにこの不完全性ゆえにこそ、世界宗教は、身体を錬金術的に変質させてしまう吸収力を保証しえたのであり、自らが支配する領域の内に多様な身体――多様な生活様式を有する身体――を共存させることができたということである。普遍思想(世界宗教)の(見かけ上の)普遍性は、その「普遍性」が不完全であったがゆえに確保されえたのだ。(164頁)


やがて帝国は、「外部」からの反抗に直面することになる。







テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大澤真幸『ナショナリズムの由来』(講談社)@ フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる