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zoom RSS 森岡正博『33個めの石』(春秋社)A

<<   作成日時 : 2009/05/07 14:08   >>

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おそらく50年前のひとびとは、未来を輝かしいものと思い描いていたのではないか。

いまは貧しい。

でも、数年先、数十年先には明るい未来が待っている。


そうイメージしていたのではないか。

しかし、現在のわたしたにはどうだろうか?

この先の世界がよりよい方向に進んで行くと期待できるか?

環境問題や資源・エネルギー問題だけではない。

科学技術の進歩は、どこへわたしたちを運ぼうとしているのか?

実験室では、ネズミの脳に電極を差し込んで、生きたまま自由自在に動かすことに成功している。ちょうどテレビゲームをするときのように、右ボタンを押せばネズミは右に曲がって走り、左ボタンで左に曲がって走るのである。これと同じような電極を、人間の脳に差し込む実験も成功した。(40頁)


著者は明記していないが、
この話は恐らくNHK特集で放映されたもののことだと思う。

わたしも同じ番組を観たので鮮明に覚えている。

鬱病の患者の脳に電極を差し込む。

すると、患者は明るい気分になれる、という実験がアメリカで行なわれていた。

こうした装置を使えば、ひとの感情をコントロールすることができる。

たとえば、誰かがその機械を使って、私の脳の中の食欲中枢を的確に刺激したとする。すると私は、ほんとうにお腹が減ったような気がして、「ああ、ご飯食べなくっちゃ」と思い、まるで自分の自由意志で決めたかのようにして、なんの疑いもなく食べに出かけることになるはずだ。(41頁)


これも著者は述べていないことだが、
このような人間の被操作性は消費社会批判として以前から言われていたことでもある。

「ああ、あの服がほしい」

「ああ、あのCDを買わなくっちゃ」

CMなどを通じてひとびとの購買欲を刺激し、消費へと駆り立てる。

いわば目に見えない「リモコン」でわたしたちの行動が操作されているのだ。

背後でほくそ笑んでいるのが、電通などの広告代理店である。

次に「ペット」について。

小型の室内犬を飼うひとが増えている。

日本のペットは、途上国のひとたちよりもはるかによいものを食べている。

美容室でキレイにシャンプーとカットもしてもらえる。

ここに最新のテクノロジーが応用されたら、どうなるか?

まずは、クローン技術をもちいて、小さくてかわいい犬の個体を複製販売しはじめるだろう。実際に、アメリカでは、クローン猫を販売する会社がすでに存在する。次に、それらのクローン犬の受精卵に遺伝子操作をほどこすことによって、成長がきわめて遅い個体、すなわち、いつまでたっても赤ちゃんのままでいるような個体が作り出されることになるだろう。(57頁)


すでに、蛍光色に光るメダカや犬が開発され、遺伝子操作は実用化されている。

こうしたことにわたしたちはなんとなく違和感と嫌悪感を抱くが、
どうしてそれが問題なのか、なぜいけないことなのか、
犬に服を着せ、品種改良をするのはどうして許されるのか、
それを説明できるだろうか?

成長を止め、ずっとかわいいままでいてほしい、という欲望。

成長を意図的に止めることは、すでに人間に対して行なわれている。

2006年11月に、ロイター通信が、衝撃的なニュースを世界に配信した。アメリカのシアトルの病院で、発達障害で寝たきりの6歳の女の子の成長を止める治療が開始されたというのである。女の子に女性ホルモンを注入して、身体の成長を止めるという治療なのであるが、それは見事に成功して、いまや女の子の成長は完全にストップした。(58頁)


なぜ少女の身体の成長をとめようとするのか?

それは、少女の身体が成長していけば介護が大変になると、
両親が考えたからだった。

両親は、女の子の成長を止めただけではなく、彼女の子宮を摘出し、乳首(乳房芽)を切除したのである。なぜなら、女の子の乳房が大きくなれば体位交換などのケアをするときに不便であるし、子宮と卵巣が発達すればやがて生理が訪れるからである。(59頁)


「フォーラム自由幻想」を読みつづけてくださっている読者は、
以前のある記事が思い出されたのではないか?

「『思いやり』とは何か」で紹介した「アシュリー事件」である。

そうだ、この話は「アシュリー事件」のことである。

両親は、介護が楽になるからという利己的な理由だけで
この処置を行なったのではない。

アシュリー自身のためだ、というのである。

どういうことなのかは本書を読んでいただきたいが、
わたしたちがこの両親に重苦しい違和感を抱いてしまうとしたら、
それはこの行為がきわめて「不自然」なものと感じられるからではないか。

わたしたちのなかには、「自然なもの」を歓迎し、
「不自然なもの」を排除しようとする傾向がある。

しかしながら、その「自然/不自然」というイメージも相当に怪しいものである。

次に、「自然」について。

 いま全国の小学校で、「学校ビオトープ」というものが流行っている。ビオトープは、ドイツ語で、生物の生息空間を意味する。日本では、小学校の敷地に小さな池を掘って、水草や昆虫やメダカなどを繁殖させたものを、ビオトープと呼ぶことが多い。
 最近の子どもたちは自然を知らないから、せめて学校の中に擬似的な自然を作り上げて、子どもたちに生き物のほんとうの姿を観察してもらおうというわけである。(64頁)


きっとこの試みを評価しないひとはほとんどいない。

誰もがよいことだと思う。

しかし本当にそうだろうか?

もし、このビオトープに、蛇やゲジゲジやヤブ蚊が大量発生したらどうするのか?

学校は、保護者からのクレームが来ないように、
いっせいにそれらの害虫・害獣を駆除しようとするだろう、と著者は言う。

つまり学校ビオトープとは、けっして本来の自然などではない。それは、親や学校が子どもたちに見せたい自然の姿、すなわち映画やアニメのなかに描かれるような心地よい自然のイメージを、巧妙に校内に作り上げたものにほかならない。したがって、そこにあるのは、「自然はこのようなものであってほしい」という大人たちの願望の塊なのであり、きわめて人工的な妄想の産物なのである。(65頁)


そのことに無自覚な人間は、
自分たちのふるまいを「自然なこと」「当然のこと」と見なす。

そのことに疑いを持てなくなる。

自分たちの妄想を「自然なこと」として正当化する暴力行為のひとつが、
差別と偏見である。

次回は、その差別と偏見についての文章を紹介することにしよう。







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