フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 見田宗介『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社)

<<   作成日時 : 2009/04/17 17:20   >>

トラックバック 0 / コメント 0

これは、いまから30年以上も前に書かれたものである。

  「まなざしの地獄」(初出1973年)

  「新しい望郷の歌」(初出1965年)

それを、新たに出版したのが本書である。

巻末には社会学者・大澤真幸(京都大学)の解説が寄せられている。

超おすすめ。

この本を読むにあたって、次のことを頭に入れておくとよい。

「人間は、自由になろうとする存在である」

自由になろうとする存在。

自由への意思。

これを著者は「『尽きなく存在し』ようとする人間」と表現している。

このことをふまえて本書を読めば、決してむずかしい内容ではない。

それから、この本は、次のひとたちにとくにおすすめ。

・ 凶悪犯罪の報道を見て、「死刑にしてしまえ」としか言えないひと

・ 日本はすばらしい国だと信じ込まされているひと

・ 常識的なモノの見方しかできないひと

・ 世間一般のひと

・ 犯罪を個人の問題としてしか捉えられない単細胞のひと


「まなざしの地獄」

本書は、N・Nの経歴からはじまる。

N・Nとは誰のことか?
それは読んでいくうちに分かるはずである。

N・Nは、1965年に青森県の中学校を卒業した。

そして、集団就職の一員として上京した。

当時の日本はどのような状況だったのだろうか?

N・Nの上京した1965年の全国の中学卒業者のうち、就職を希望する者44万8000にたいして、求人は166万8000であり、求人倍率は3.72であった(高卒者は3.50)。(18頁)


現在の不況と比べると、驚くほどのちがいである。

とりわけ工業地帯での求人はとても多かった。

〔ちなみに1970年の京浜の中卒求職者数9494にたいし、求人数21万6843、求人倍率はじつに22.84である。〕(18頁)


若者は「金の卵」と言われた時代である。

「金の卵」と言われ、貴重な労働力として期待されていた。

資本の側からの「まなざし」。

しかし、若者自身にとっては、
「金の卵」として重宝されることは必ずしも喜ぶべきことではなかった。

「金の卵」であるということは、この卵の持主にとっては幸福であるが、その卵自身の内部生命にとってはけっして幸福ではない。卵殻が「金」でできているとき、その卵自身の内部生命は、やがてその成長の過程にあってみずからの殻をくい破ってはばたき出すことを封じられ、その固い物質の鋳型の中で腐敗し石化してしまうであろう。(21頁)
※太字部分は、原文では強調点。


これは単なる比喩ではない。

「金の卵」とは、労働者を使う側のあられもない本音を物語っている。

企業は若者を「金の卵」として丁重に扱ったかもしれない。

だがあくまでもそれは彼が、「やる気をもった家畜」として忍耐強く働く〈若年労働力〉たるかぎりにおいてである。(21頁)


「金の卵」として扱われるということは、
そのひとが「安価な労働力」として扱われることを意味する。

企業にとって関心があるのは、「人間」ではなく「労働力」だからだ。

資本の側からの「まなざし」。

「金の卵」としての彼らの階級的対他存在にとって、このような存在ののりこえへの意思、生の無限性への意欲は、たんに当惑させるもの(スキャンダル)であり、不条理な攪乱要因にすぎない。雇用者たちにしてみれば、このような少年たちの「尽きなく存在し」ようとする欲望くらい、不本意で腹立たしいものはない。「こんなにも大切にしてやっているのに、どこまでつけあがる……。」道徳教育への要求。「近ごろの若い者はわからん。」
 もちろん少年のがわからみれば、このような「金の卵」としての自己の階級的対他存在こそはまさしく、一個の自由としての飛翔をとりもちのようにからめとりつつ限界づける他者たちのまなざしの罠に他ならない。(22頁)


いかがだろうか?

「まなざしの地獄」。

35年近く前に書かれたものだが、
ここに解き明かされている雇用者たちの本音は、
いまもメディアなどで保守派たちによって繰り返されているものであろう。

保守派はだからしばしば企業の代弁者である。

労働力が不足している時代でも、
労働力が余っている時代でも、
保守派はこのようにして若者を縛りつけようとするのである。

保守派の「まなざし」。

保守派は、まるでオウムのようである。

しかし人間は、雇用者たちの望むような存在ではあり得ない。

「自由になろうとする存在」だからだ。

ただおとなしく効率的に働いてくれればよいとしか考えていない雇用者。

それに対して、
あふれ出る不満とエネルギーを吐き出そうとする若者は、
では、どうするのか?

都市に流入する「新鮮な労働力」に付着してくる、このやっかいな夢見る亡霊の処理のためには、安直な大衆消費文化と警察の補導係の他には、かくべつの制度は用意されていない。(23頁)


なるほど。

大衆消費文化で洗脳してしまうか、
あるいは警察の力で抑え込むか、これしかない。

テレビを見て、パチンコに行って、ショッピングをして、
若者がストレス発散してくれれば、こんな安上がりなことはない。

それで満足してくれない若者は、逮捕してしまえばよい。

世間は警察を信用している。

メディアは警察発表をそのまま流してくれる。

だから、わるいのは若者だということになる。

貧困に陥ったとしても、それは本人の責任であるとされる。
本人の努力が足りないせいだとされる。

しかし、貧困は人間性を容赦なく破壊する。

貧困とはたんに生活の物質的な水準の問題ではない。それはそれぞれの具体的な社会の中で、人びとの誇りを挫き未来を解体し、「考える精神」を奪い、生活のスタイルのすみずみを「貧乏くさく」刻印し、人と人との関係を解体し去り、感情を涸渇せしめて、人の存在そのものを一つの欠如として指定する、そのようなある情況の総体性である。(52頁)


貧困とは、経済的なひとつの状態であるだけではない。

貧困とは、「社会的存在論のカテゴリー」である。

貧困はひとを殺すものなのだ。

都会は一つの、よく機能する巨大な消化器系統である。それは年々数十万の新鮮な青少年をのみこみ、その労働力を吸収しつくし、余分なもの、不消化なものを凝固して排泄する。(65頁)


青森から東京に出てきたN・Nは、「まなざしの地獄」に苦しんだ。

都会から排泄されたN・Nは、ピストルで4人を射殺した。

N・Nは19歳だった。

N・Nが現実に穴をうがったのは、N・Nとおなじく体制の弱者であり犠牲者である、年若いガードマンと運転手たちと、70歳近い神社の夜警員との、四つの生きている頭蓋骨にすぎなかった。
 N・Nの弾道がまさにその至近距離の対象に命中した瞬間、N・Nの弾道はじつは永久にその対象を外れてしまった。ここに体制のおそるべき陥穽はあった。そうしてのちに、行為のあとでそのことを知ったN・Nの痛恨はあった。(66頁)


それにしても、
なぜN・Nは、不正に富を得ているひとや政治家を狙わなかったのか?

大企業の経営者たちを狙わなかったのか?

ある人はある人よりも貧しく、ある人はある人よりもいっそうさげすまれている。だから貧困や屈辱の体験は、直接にはいつも、同胞と自己とをまさに差異づけるものとして、孤独のうちに体験される。だからこの直接性のとどまる限り、それは同胞への怨恨や怒りとして経験される。(68頁)


秋葉原通り魔殺人事件のKが秋葉原にたまたまいたひとたちを狙ったのも、
これと同じ構造によるものだったのだろうか?

都会は、消化できないものを排泄する。

資本制社会は、必然的に貧困を生みだす。

だから、「誰かが飢えなければならない」。

「むかし日本のまずしい村々は、家族のやしなうことのできない生命を未然に封殺するために、「びっき林」をもっていた。……
 たとえば「おばすて」のようなかたちで、共同体はみずからの過剰の人口を処分してきた。市民社会はこのおなじ老人たちに、密室や施設の中でひっそりと死をえらばせる。都会はスマートに殺す。(70−71頁)


尊厳死は、そのような側面からも捉えられなければならない。

社会や家族のなかで、自分の存在を「過剰なもの」「余分なもの」と感じたひとが、
自分の「意思」で死を選ぶ行為でもあるのだから。

近代市民社会の論理は、まずしい村々や家族を解体し、これらの共同体をして、みずからの死者を選ばせる。「悪いのはあの親たちだ。」「悪いのはあの息子たちだ。」「悪いのはあの近隣の人たちだ。」(72頁)


こうして冷酷な論理と構造は見事に隠蔽される。

「わるいのはN・Nだ、死刑にしてしまえ」

世間からの「まなざし」。

排泄物を取り除くかのように、N・Nは国家によって「処刑」された。

まるでこの世に安らかな均衡を取り戻すかのように。





テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
見田宗介『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる