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zoom RSS E・H・エリクソン『青年ルター』全2巻(みすず書房)

<<   作成日時 : 2009/03/05 00:26   >>

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心理学者が歴史的人物マルチン・ルターを心理分析するという本である。

宗教改革の指導者ルターの名は、誰でも知っていると思う。
麻生太郎でも知っていると思う。

しかしルターの文章を読んだことのあるひとは、少ないだろう。
麻生太郎も読んだことはないと思う。

彼はクリスチャンらしいが、聖書だって読破してはいないだろう。

わたしはいくつかのルターの著作を読んだことがあるが、
実際に読んでみると、そのあまりの口汚い罵倒の数々に驚いた覚えがある。

著者エリクソンはルターを「サディスト」と診断しているが、
それはルターが小さいころから厳しい体罰を受けて育ったことも
大きな要因になっていたようだ。

いま日本では、「体罰容認」の空気が広がりはじめている。

知事という公的な地位にあるものが「体罰容認」を公言し、
「子どもは殴っていうことを聞かせればよい」と共感するひとまで出てきている。

だから、そこに関わる部分から取り上げたい。

少年ルターはある日、くるみをひとつ盗んだという理由で、
母親からムチで血が出るまで叩かれたという。

当時のひとびとは、犯罪者に拷問を加えることが当然であると思っていた。

同じように、子どものしつけとして、
殴ることもムチで叩くことも当たり前だと思っていたのだろう。

愛のある体罰は適切な人格形成につながる、というわけだ。

本当だろうか?

……良き体罰は害がなく好ましい結果を生むと説教する人に、同意する必要もない。そうした人たちは、今となっては取り返しのつかない過去の出来事を何とか受け入れようと努力しているにすぎない。(101頁)


なるほど。

体罰を肯定するひとたちは、
自分が犯した罪を認めることができず、
その暴力をふるった自分の過去を正当化しようとしているのである。

だから、わたしたちは体罰肯定論者たちに同意する必要はない。

まったくない。

忘れてはならないのは、大多数の人は子どもを服従させるためにいかに体罰を与えるか、そのための計画を立てたりはしないという点である。……アメリカの大平原に暮らすインディアン[ネイティヴ・アメリカン]のある部族の人たちは、白人が子どもを叩く姿を初めて見た時、強い衝撃を受けた。彼らはそうした行動をどう理解してよいかわからず、ある種の使命感として理解した。(101頁)


ネイティブ・アメリカンは、白人から「野蛮人」と見なされたひとたちだ。

白人は「理性的」な「文明人」である。

それに対して先住民たちは「野蛮人」である。

そう見なされていた。

しかしいったいどちらが本当の「野蛮人」なのだろうか?

アメリカ先住民がいまの日本の体罰容認派を見たら、
きっと「強い衝撃を受け」、それを「どう理解してよいか」分からないであろう。

著者は言う。

体罰を与えるひとは「計画を立てたりはしない」。

重要な指摘だ。

体罰を行なう大人は、どんなに自分の行為を正当化しても、
子どもを殴る瞬間、彼/彼女たちはただ「カッ」となって殴っているのだ。

たまたま機嫌がわるいときに「カッ」となって殴るのだ。

会社でイヤなことがあって、それを発散するために殴るのである。

夫婦関係がうまくいっていないので、子どもを殴るのである。

殴った後味のわるさを忘れるために、彼/彼女は自分に向かってこう言い聞かせる。

「これは子どものためなのだ」

「これは子どものしつけのためだ」

「子どもが言うことをきかないからやむを得ず手を出したのだ」

体罰を与えてでも子どもの道徳性を高めるべきかどうか、その判断は父親の自由裁量に任されるという理解の根底には、〈所有権〉に関する特別な考え方がある。(そこには、自分の所有物は自分で破壊することができるという考えも含まれている。)そして、子どもを所有物と見る考え方こそが、衝動を強制に、気まぐれを道徳的論理に、野蛮を傲慢に誤って結びつけてしまい、それによって人間が神の息吹を吹き込まれていない他の生き物より一層残酷で不道徳になってしまったことは明らかである。(102頁)


ここで著者が「所有権」と結びつけて論じているところに注目しよう。

「所有権」については、また後日記事を書くつもりだ。

ルターはルネサンスにはまるで関心を示さず、彫刻にも絵画にも、画家や作家にも、何ひとつとしてその美的観点からの言及はない。これはルターの個人の挿話であるとともに、歴史的にも興味深いことである。(272頁)


これはルター研究にとってはおもしろい指摘なのだが、
このブログでは専門的になりすぎないことを心がけているので深く立ち入らない。

1525年の小冊子『農民の殺人強盗団を駁す』では、ルターは公然とあるいは密かに、大量虐殺を言葉で示唆している。それは今日ならば警察本部か強制収容所の門にでも掲げられるような言葉であった。(371頁)


これは何のことかというと、「ドイツ農民戦争」(1524)のことである。

当時、権力をほしいままにしていた貴族に対して、
農民たちが反乱を起こしたのである。

ルターのカトリック批判に呼応するかたちで、蜂起したのだった。

ところがそのルターは、逆に、農民たちを弾圧せよと呼びかけた。

実際に彼が書いたものを引用してみると、その残虐さがよく分かる。

だから、できる者はだれでも、ひそかにであろうと公然とであろうと、彼ら〔農民〕を打つ殺し、絞め殺し、刺し殺さなければならない。そして暴徒ほど有害にして、有害な、また悪魔的なものはないのだということを忘れてはならない。(『世界の名著ルター』中央公論社、303頁)


どうだろうか、これがルターの言葉だとは信じられないだろう。

だから当局は、いまここで、自信をもってことをとり運び、その血管が動いているかぎり、良心に恥じることなく、彼ら〔農民〕を打ち倒さなければならない。(307頁)


自信をもって殺せ、と言っている。

だから、愛する諸侯よ。ここで解放し、ここで救い、ここで助けなさい。領民に憐れみを示しなさい。できる者はだれでも、刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。(同書、308−309頁)


ルターの書いたものはこのようなものばかりではない。

しかし、ルターはハッキリと大量虐殺を呼びかけている。

「農民に対する苛酷な小著についての手紙」では、次のように述べている。

……反抗する者は、理性を受け入れようとしないので、理性をもって答えるのに値しないからであります。このような人に対しては、こぶしをもって答え、鼻血を流させなければなりません。(同書、312頁)


ルターのこのような呼びかけの結果が、次のような歴史的事実である。

1525年5月、フランケンハウゼンの戦いで農民たちは虐殺された。……総計13万人の農民が殺されたのであった。(373頁)


これが、厳しい体罰を受けて育った者の姿である。

体罰を容認するものたちは、
子どもへの暴力にはじまって、
他者への暴力も容認していくにちがいない。

しかし、そんな大人たちの横暴を、子どもたちは諾々と受け入れる必要はない。

大人は言うだろう。

「うそをつくな」

「ひとを裏切るな」

「言うことをききなさい」

そして言うことをきかないと殴る。

それなら、子どもたちも親に同じようにしてやろう。

体罰を容認する大人がもしミスをしたら、もしうそをついていたら、
子どもたちは大人を殴ってやるとよい。

あまりに体力差がある場合は、手近な武器を使って殴るとよい。

なぜなら、「大人は殴らないと分からない」のだから。

いい年してそれでも「うそ」をつくなら、
大人は話して分かるはずもなく、殴って分からせないといけない。

口答えでもしようものなら、さらに殴ってやるといい。

「いい年してまだひとの痛みも分からないのか」と殴ってやるといい。

ただし「愛情」をこめて。

愛のある体罰は「暴力」ではないらしいからね。

ね、知事さん。







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