フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)A

<<   作成日時 : 2009/03/14 03:04   >>

トラックバック 0 / コメント 0

前回のつづき。

日本の貧困状況は、誰が見ても理不尽だ。

どうすればよいのかという対策もハッキリしている。

普通、そうした苦しんでいるひとがいれば、手を差し伸べるものである。

前にも書いたが、南米チリの犬だってすることなのだ。
※「『自己責任』という名の暴力」を参照。

心情的に貧困層を放置してはいけないというだけではない。

わたしたちには「生存権」があるのだ。

その「生存権」を守る義務が、政府にはあるのだ。

第25条

第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


ところが、日本人はそうしない。

わたしたちの人権が侵害されているのに、このことに多くのひとは怒らない。

貧困に陥ったひとたちに向けて投げつけられる言葉がある。

言うまでもなく「自己責任」である。

立場の弱いひとに向かって「自己責任」だと言い放つのが、日本では流行だ。

本書ではこの「自己責任論」が徹底的に批判されている。

……自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である。他方、貧困とは「他の選択肢を等しくは選べない」、その意味で「基本的な潜在能力を欠如させた」状態(セン)、あるいは総合的に“溜め”を奪われた/失った状態である。よって両者は相容れない。
 貧困状態にある人たちに自己責任を押し付けるのは、溜池のない地域で日照りが続く中、立派に作物を育ててみせろと要求するようなものだろう。それは、日々の激務の中で疲れ果て、うつ状態になり、ついには過労死してしまった人に、プロボクサー並の健康管理をやってみせろと要求した奥谷氏と変わらない。(82−83頁)


ここで出てきた「セン」というのは、
インドのノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センのことである。

また、ここで出てきた「奥谷氏」というのは、
人材派遣会社ザ・アールの社長・奥谷禮子のことである。

彼女については、あらためて別の記事に書こうと思う。

オリンピックやサミットなどの国際イベントは、必ずその地域の野宿者の排除を伴う。学校給食費・保育料・医療費を支払えない人が出ると、多くの場合、本人が払おうとしないことが強調され、背後にある貧困問題は隠される。
 姿が見えない、実態が見えない、そして問題が見えない。そのことが、自己責任論を許し、それゆえにより一層社会から貧困を見えにくくし、それがまた自己責任論を誘発する、という悪循環を生んでいる。(86−87頁)


北京オリンピックの開催にあわせて中国の行政が貧困層を追い出したとき、
日本のメディアはこれを非難する口調で報道していた。

しかし、日本で野宿生活者たちが国際イベントにあわせて追い出されるとき、
ほどんどのひとがこれを非難しようとはしない。

公園がきれいになってよかった、などと言う大馬鹿者までいる。

「昔はみんな貧乏だった。それでも頑張ってきたんだ」「世間は厳しい。甘えるな」「おれだって大変なんだ。あんただけじゃない」――こうした言葉は、日常的に耳にする。そのとき人は概ね、いかに客観的な状況が大変だったとしても、本人の心がけ次第、頑張り次第で道は開ける/我慢できる、という神話を反復している。それは多くの場合、自分が頑張ってきたことを認めてもらいたい、という承認の欲求に根ざしているが、素直にそれを表現できない人たちは、しばしばそれを他者に対する叱責として表現する。(87頁)


自己責任をふりかざすひとたちの、どす黒い心理的メカニズムが、これだ。

だから、自己責任論によって弱者を切り捨てようとしているとき、
彼/彼女らの表情は自己顕示欲にあふれ黒光りしている。

そのときの彼/彼女らの表情は必ずニヤついている。

わたしたちは覚えておかなければならない。

「自己責任」論は、れっきとした暴力なのだ。

それはときに抑圧となり、暴力となる。(88頁)


「小さな政府」を求めたひとびとのせいで、
子育て支援も次々と縮小されてしまっている。

児童扶養手当削減、生活保護の母子加算廃止などなど。

母子家庭に対する就業支援の一事業である「常用雇用転換奨励金」(常用雇用を前提にシングルマザーを雇用した企業に1人当たり30万円の奨励金を出す制度)の実施状況は、東京・大阪・埼玉・千葉・神奈川など多くの自治体で0パーセント。(94頁)


「0パーセント」っていったい何なのだ?

もっとも、政府は、貧困の若者への支援をまったく行なっていないというわけではない。

だが、その中身はあまりに杜撰で呆れるものだ。

フリーターの就労支援対策として設置された若年向けのハローワーク「ジョブカフェ」運営の再委託を受けたリクルートが、日給12万円という人件費(プロジェクトマネージャー。事務スタッフでも5万円)を計上していた……。(95頁)


「日給12万円」(!)って何なのだ??

ところが2007年10月19日、厚生労働省はついに一般世帯の消費実態(生活扶助支出相当額)と生活保護世帯の生活保護基準を比較する詳細な分析を公表した(「生活扶助基準に関する検討会」第1回資料)。(101頁)


おお、ついに政府も動き出したか、と思うのは早計だ。

貧困の規模・程度・実態を明らかにすることを拒み続けた末に出してきた資料が、貧困問題の公認のための材料になるどころか、最低生活費の切下げ、国民生活の「底下げ」のための材料に使われた。(101頁)


年収の低いひとがどれほどたくさんいるのかが判明したら、
そのひとたちをどのようにして「底上げ」していけばよいかを考えるべきだろう。

ところが政府は、そうは考えない。

年収の低いひとがたくさんいるならば、
それでも生活していけるはずなのだと考えるらしい。

あなたが正社員だったとしよう。

あなたは非正規雇用のひとたちを見て、「そんなの自己責任だ」と思ったとしよう。

するとどうなるか?

あなたの賃金もどんどん削減されていくのである。

「あなたのしている仕事なんて非正規でもできるのだよ」
と企業から言われて雇用待遇がどんどん悪化してしまうのである。

賃金だけではない。

労働時間もますます増えていくだろう。

他人事だと思ったら大間違いなのだということを、正社員たちは知るべきである。

非正規よりもさらに厳しい偏見と差別にさらされているのが、
野宿生活者たち(ホームレス)であろう。

約95%の人たちが、少なくとも連帯保証人に金銭的な負担をかけずにアパート生活を継続しているという事実は、もっと広く知られていい。それ自体が「ホームレスの人たちはアパート生活などできない/したくない」という広く浸透した偏見に対する反証となっているからだ。
 むしろ私たちの記憶に残っているのは、「30年ぶりに畳の上で思う存分手足を伸ばして寝ることができた」「自分で作った味噌汁を飲んだときに、しみじみ『帰ってきた』と思った」という声である。長く「好きでやっている」と自己責任論で片づけられてきた野宿者も、アパートに入れさえすれば、そのほとんどが連帯保証人の世話になどならず、アパート生活を維持できる。だとすれば、彼/彼女らをアパート生活から遠ざけているものは何なのか。ここに至って無知に基づく自己責任論は破綻し、社会的・構造的な諸要因へと目が向かう。(126−127頁)


貧困の社会的・構造的要因に目を向けるべきだ、という指摘は重要だ。

何度繰り返しても足りないくらい重要だ。

貧困は、そのひとのせいでなるのではない。

社会・経済構造が貧困を生み出しているのだ。

だから「自己責任」論は、無知にもとづく暴論だ。

「無知は暴力である」ことを肝に銘じよう。

「このままでは、自殺を考えるしかありません」

「仕事も底をつき資金も底をつき路上生活となってしまった」

「お金もなく野宿も限界です」

「毎日の生活に困っていて、明日どうしようという状況です。生活していけない」

「漫画喫茶で朝の数時間の暖をとるのも最後です」

「行く所もなく着る物もなく困っています」

「今の所全財産が7円しかありません」

「所持金が500円になりました」

「生活に限界を感じています」

「3ヵ月ほどネットカフェ生活をしていますが、所持金も底をつきました。もう限界です」

「もう死ぬ事ばかり考えています」(131−132頁)


これが苦しい生活を強いられているひとびとの声だ。

しかし、貧困層のひと自身が、世間の「自己責任」論に影響されてしまっている。

どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言うのは簡単だ。しかし、ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話になってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールにあるような状態になるまでSOSを発信してこない。彼/彼女らは、よく言われるように「自助努力が足りない」のではなく。自助努力にしがみつきすぎたのだ。……自己責任論の弊害は、貧困を生み出すだけでなく、貧困当事者本人を呪縛し、問題解決から遠ざける点にある。(132頁)


「自己責任」論がどれほど暴力的かが、よく分かるだろう。

貧困層の最後の頼みの綱は生活保護であるが、
行政の対応はあまりにひどい。

「申請書すら書かせてもらえず、挙句の果てには『サラ金でも利用されたらいかがですか?』とまで言われました」

「数ヵ月間ずっと申請を受付けてもらえなかった」

「先日、私の母が役場に生活保護の申請をしようと出かけたのですが、軽く却下されてしまいました」

「家がないと生活保護も受けられないと市の職員の方から言われました」(133頁)


なぜ行政はこんなにも生活保護を使わせないようにするのか?

それは「小さな政府」を圧倒的多数の有権者どもが支持してしまったからだ。

呆れるのは、私たちのような第三者が同行すれば、その人の状況は前と何一つ変わっていなくてもすんなりと申請できることだ。……〈もやい〉のメンバーが直接聞いたところでも「申請書は金庫に入っているが、今日はもう鍵をもった人間が帰ってしまった」などと、稚拙な嘘をつく職員もいた(東京都台東区)。(134頁)


東京の台東区の職員は、こんなにもひどいのか。

みなさん、台東区にだけは住むのは絶対に避けよう。

著者自身、東京大学の大学院まで出ているのに、
日雇い派遣会社エム・クルーで働いていたことがあったそうだ。

その実態はあまりにひどいものだ。

エム・クルーが取引先企業に提示している「請負基本料金目安表」によれば、エム・クルーの日勤単価は8時間労働(9時間拘束)で1万1900円。それに対して、労働者の手元に渡るのは7700円。中間マージン率は35.2%、違法天引き最大500円を加えれば41.2%に上る。(146−147頁)


派遣会社の中間マージン率がなんと「41.2%」!

これが真っ当な企業のやることだろうか?

「違法天引き」というのは、「データ装備費」「安全協力費」などの名目で、
派遣会社が勝手に労働者の給料から引き抜いてしまうものである。

それだけではない。

派遣労働者というのは、企業にとっては「人間」ではないらしい。

人材派遣業者(派遣元企業)から取引先(派遣先企業)に派遣された労働者は、派遣先企業に対しては基本的に労働者としての権利をもたない。派遣される労働者の賃金は、会社の経理上「人件費」ではなく「資材調達費」などに分類されるが、その立場を象徴している。労働者を「人」としてではなく、「商品」として取り扱うことを肯定したシステムが労働者派遣であり、そこで労働者は、倉庫に置かれた在庫物資と基本的に変わらない存在となる。(155頁)


派遣労働者の賃金は、「人件費」ではないのである。

「資材調達費」なのである。

「人間」ではなく、「資材」なのである。

完全に「モノ」扱い。

「モノ」だと思えば、彼らに何をしたって心が痛まない、というわけか。

「ネットカフェ難民」の名づけ親である……日本テレビ・水島宏明氏は、特派員として滞在した経験のあるイギリス・ドイツに比べて、「日本では専門家による貧困・福祉の研究成果が一般の人たちや政治家らの関心事とならずに、庶民の井戸端会議での感情的な議論そのままで貧困対策を議論し合っている傾向がある。マスコミも同様で、先進国としてはあまりにお寒い現状だ」……と嘆いている。(193頁)


これも重要な指摘だ。

無知にもとづく感情論しかこの国には見られないという。

大都市で野宿者のテント化が進んだ98〜99年にかけては、多くの人が公園にブルーテントが急激に増えていく様子を目撃していたはずだ。野宿者は、日本社会の中でいかに貧困が進行しているか、日本社会が『どえらい』ことになってきているかを、「見える」形で示す非常に特異な存在だった。いわば、炭鉱の中で真っ先にガス漏れの異常事態に気づくカナリアの役割を果たしていた。
 しかし、日本社会はその警告を無視した。野宿者の存在を社会全体の問題と受け止めず、「変わり者が好きでやっている」と自己責任論で片づけた。フリーターも同様だ。リクルートが「フリーター」という言葉を作った80年代末から90年代を通じて、フリーターは一貫して増え続けたが、それを社会全体への警告として受け止めることは、つい最近までなかった。(206頁)


だから、他人事だと思うのではなく、
これを自分の問題として捉えることが必要である。

手近に悪者を仕立て上げて、末端で割り食った者同士が対立し、結果的にはどちらの利益にもならない「底辺への競争」を行う。もうこうした現象はたくさんだ。また同じことを繰り返すのだとしたら、私たちはこの10年でいったい何を学んだのか。(207頁)


それでも「自己責任」論は根強い。

怠けている連中のために税金が使われるのは許せない、と考えるひとがいる。

もしそう思うひとがいるならば、
そのひとは「人権」についてまったく理解していないということだ。

なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは貧困状態にある人たちが「保護に値する」かわいそうで、立派な人たちだからではない。貧困状態にまで追い込まれた人たちの中には、立派な人もいれば、立派でない人もいる。それは、資産家の中に立派な人もいれば、唾棄すべき人間もいるのと同じだ。立派でもなく、かわいくもない人たちは「保護に値しない」のなら、それはもう人権ではない。生を値踏みすべきではない。貧困が「あってはならない」のは、それが社会自身の弱体化の証だからに他ならない。(209頁)


だから、繰り返すが、
「自己責任」論は無知にもとづく暴力であり、人権そのものを破壊するものなのだ。

だから、もう自己責任などという暴論を吐くのはやめよう。

誰かに自己責任を押し付け、それで何かの答えが出たような気分になるのは、もうやめよう。お金がない、財産がないなどという言い訳を真に受けるのは、もうやめよう。(224頁)


もうやめよう。

いい加減「自己責任」などというのは、もうやめよう。

そして、貧困層への支援をわたしたちができるかぎり行なっていくことも大事だが、
そもそも「責任」(!)を放棄している政府・企業に対して、
わたしたちはセーフティネットの充実を強く要求していくべきなのである。

ところで、本書にはこんな話が出ている。

私のところには自衛隊の募集担当者から積極的なアプローチがある。ターゲットが〈もやい〉に相談に来るワーキング・プアの若者たちであることは明らかだ。(212頁)


怖ろしいことだ。

アメリカに見られるような貧困層への積極的な軍人リクルートが、
日本でもはじまっている。

軍事と労働のつながりについては、近日中に書くつもりである。







テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
湯浅誠『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)A フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる