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zoom RSS 神野直彦『人間回復の経済学』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2009/02/15 12:10   >>

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小泉・竹中による構造改革の危険性が、やっと認識されるようになった。

しかし、日本のメディアは相変わらずである。

小泉純一郎の麻生首相批判が
まるで重大発言であるかのように繰り返し取り上げている。

竹中平蔵もテレビ番組にのうのうと出演していて、
この危機は構造改革が不十分だから起きているのだと
相当にむちゃくちゃな弁解をしている。

竹中平蔵というひとは、むちゃくちゃなひとである。

自分に対して「市場原理主義」というレッテルを貼るなと言うが、
自分を批判するひとには「社会主義者」というレッテルを貼っている。

小泉の麻生批判が大きく取りあげられているが、これは、
小泉という「硬いうんこ」が、麻生という「やわらかいうんこ」に苦言を呈しただけであって、
どちらも「うんこ」であることに変わりはない。

いや、下品な比喩を用いて申しわけない。

しかし、下品な連中には下品な比喩しか思い浮かばない。

構造改革とは、どのような思想にもとづくものなのか?

もう一度振り返っておこう。

日本の構造改革を支えている経済政策思想は、「新自由主義」と呼ばれる。そうした新自由主義の旗幟を鮮明にした最初の政権こそ、1979年のサッチャー政権である。その後、新自由主義をかかげる政権が、1981年にアメリカでレーガン政権として、1982年に日本で中曾根政権として誕生していくことになる。(31頁)


しかし新自由主義は「小さな政府」を目指し、財政を縮小させる。

社会のなかに深刻な格差を生みだす。

もちろん、新自由主義も、小さな政府をとなえ、財政という共同経済を縮小してしまえば、社会統合に亀裂が生じることぐらい百も承知している。19世紀の初頭にイギリスが自由主義を謳歌していた時代には、家族や地域社会の相互扶助や共同作業という助けあいが十分に機能していた。
 それだからこそサッチャーは「ビクトリアの美徳」を説く。つまり、家族のきずなや地域社会のきずなの重要性を強調する。そうすれば、家族や地域社会が社会崩壊を予防してくれるはずだからである。
 しかし、いくら恋こがれても、ビクトリアの時代に逆もどりすることはできない。(44頁)


日本の状況も、まったく同じだった。

国家が果たすべき機能を次々と放棄していく一方、
地域社会や家族やモラルや伝統文化の重要性が「上から」強調された。

政府が果たすべきだと考えられていた重要な機能を放棄するには、
それなりの「屁理屈」が準備されていなければならない。

つまり、国民をだますための「からくり」である。

そこで新自由主義は、攻撃の鉾先を、財政による所得再分配機能や社会福祉政策に向けていく。つまり、財政による所得再分配機能や社会福祉政策こそが、家族や地域社会の責任を破壊していると主張したのである。それは、財政が所得再分配政策や社会福祉政策から撤退すれば、ビクトリア時代の家族や地域社会における協力が自発的に芽生えると想定していたといっていい。(45頁)


いわゆる「モラル・ハザード」というやつである。

社会保障制度が充実していると、
ひとびとの責任意識が希薄になっていくというのである。

「自己責任論」はこうした背景から登場する。

だが、新自由主義には根本的な矛盾があった。

なぜなら、この思想には、そもそもひとびとが協力し合うという人間観がないからだ。

しかし、新自由主義の経済人という人間観からは、人間が連帯と協力を求める社会的欲求をそなえた存在だという理解は出てこない。人間は自己利益のみを追求する経済人で、他者と共感する人間としては想定していないのだから。
 新自由主義は、人間が自然状態では経済人だと考え、神の見えざる手に運命をゆだねなければならない、と説いている。したがって、人間を自然状態にしておけば、家族や地域社会が生じるという想定は、新自由主義では論理矛盾となる。(45−46頁)


この思想的矛盾の指摘は、けっこう鋭い。

新自由主義の人間理解は、あまりに皮相的なのだ。

世界に対する理解がお粗末であるといってもよい。

ともあれ、新自由主義は、その経済政策で社会を分裂させると同時に、
強引な力で社会を統合させようとする。

経済的な新自由主義は、政治的には新国家主義を志向する。

新自由主義と新国家主義の結合である。

新自由主義が新国家主義と表現されることには違和感があるかもしれない。しかし、市場主義とは国家主義との親和なしには成立しないのである。
 それはサッチャーにしろ、レーガンにしろ、自他ともに許す国家主義者であったことを想起してもらえば、容易に理解できるはずである。(47−48頁)


なぜなら、市場は国家の暴力によって守られるからだ。

市場主義は、国家が暴力を行使する組織として純化していることを主張しているにすぎない。つまり、市場主義は暴力的には強い国家を要求する。「経済人」は、暴力的な「政治人」との幸福な結婚なしには、社会を築くことはできないのである。(48頁)


こうして、新自由主義によろう構造改革では、
社会保障を容赦なく切り捨てていくことになる。

年金財政への不安が高まれば、消費をひかえ、貯蓄を増強する。そうすると、企業の売上げは伸びず、人件費を抑制するために、不正規従業員を増加させる。
 ところが、不正規従業員は社会保険に加入しない。不正規従業員が加入しないと、社会保険の空洞化が生じる。社会保険の空洞化が生じると、社会保険に頼ることができないため、消費を抑制して、貯蓄を増強する。こうして不安と不況の悪循環がくりかえされていく。(68頁)


政府は言う。

「いまは100年に1度の危機である」と。

企業は言う。

「いまは深刻な不況であるから、これを何とか乗り切らないといけない」と。

メディアは言う。

「企業がつぶれたら、雇用もなくなるのですよ」と。

こうしてひとびとは、過酷な労働と生活を強いられていく。

家族つまりファミリーとは、「食事を同じくする者たち」という意味である。井上達夫東京大学教授の指摘によれば、ローマ時代の奴隷にも、家族には食事と同じくする権利が認められていた。しかし、日本の家族にはローマの奴隷に許された権利すらない。食事を同じくするという、家族の態をなすための最低の時間すら、労働時間に侵食されているのである。(170頁)


資本主義は社会を豊かにするなどと言われてきたが、
資本主義が実現した労働者の暮らしは古代ローマの「奴隷以下」だったのである。






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