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zoom RSS 辺見庸『愛と痛み――死刑をめぐって』(毎日新聞社)

<<   作成日時 : 2009/01/21 16:48   >>

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辺見庸は、著名なジャーナリストである。

そして、日本の数少ない「分かっているひと」のひとりである。

もしまだ『もの食う人びと』(角川文庫)を読んでいないひとがいたら、
すぐに入手して読むことを強くおすすめする。

辺見庸の衝撃的な出世作である。

彼は元共同通信社の記者で、芥川賞を受賞した作家でもある。
高橋哲哉(哲学)との共著も出している。

さて、今回紹介するのは、副題からも分かるように、
「死刑」をめぐって行なわれた彼の講演録である。

まず彼は、日本の腐りきった日常に対して苛立ちをみせる。

現在の日本人が生きているのは、どんな「日常」なのだろうか?

彼はそれをこう表現している。

……「世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行うような、狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ」のが日常……。(27頁)


実際、阪神大震災のとき、
みずから被災したにもかかわらず借りていたDVDを
律儀に返却しに行ったひとがいたらしい。

大震災の日にレンタルDVDを返しにいき健康サプリメントを飲むような、そんな不気味な日常の気配を私はひりひりと感じています。(28頁)


自分の健康に気を遣い、「幸福」な日々を生きるひとたち。

しかしその一方で、死刑という名の殺人が行なわれている。

それについて日本人は、もう何とも思わなくなってしまった。

日本がすでにファッショ化し、全体主義化しているというのに、
そのことについてほとんどの日本人は危機感も抱かない。

これをBFSシンドロームという。

BFSシンドローム、すなわち「ゆでガエル症候群」。

水から徐々にゆっくりと温度を上げて茹でられる蛙は、沸点に近づこうとする熱湯に気づかず、「いい湯だな」と心地よさを感じたまま死んでいくそうです。……同様に、微温のぬるま湯のなかで危険を察することなく死にゆくような状態がこの国の日常なのではないでしょうか。実際には、湯が熱くなったとたんに驚愕して鍋から飛び出す蛙があるそうですが、だとしたら、まったく人間よりも蛙のほうが頭がいい。(28−29頁)


なるほど、日本人は蛙よりも頭がわるいのである。

「ディズニー化した日常」を生きる日本人。

だから著者は、隠された現実を執拗に想像する。

死刑囚を吊るしたロープの軋む音がするだろう。死刑囚が落下していく瞬間に頸骨がバキッと折れる音がするだろう。舌骨が砕ける音がするだろう。鼻血が垂れ、失禁された尿が流れ、脱糞や射精のあとが漏れだすだろう。東京拘置所の確定死刑囚のなかには、死後の脱糞を恥じ入って刑の直前に下剤を求める人がいるそうです。私が容易に想像できるのはたちこめるにおいです。刑場には被造物の最期のにおいがする。(36頁)


ひとが殺されているのだから。

国家権力によって殺されているのだから。

たとえばアメリカでは数州に限ってはいまもなお死刑を執行しているのですが、執行当日は必ず人びとがキャンドルサービスのために集まる。死刑執行を忘れまい、その事実を自分たちの日々に埋没させまいとしているのではないでしょうか。(42頁)


しかし日本ではどうか?

テレビで死刑執行のニュースが報道されたとしても、
ひとびとの記憶にはほとんど残らない。

食事中のひとびとは、その瞬間も、箸を休めることなく食いつづける。

ひとが殺されていても、何とも思わない。

2006年のクリスマスに、日本でいくつかの死刑が執行された。

 このとき絞首刑に処せられた4人のうちの1人が病人であることをさらに後になって私は知りました。75歳という高齢の病人で、自力で歩くことができなかったといいます。おそらく車椅子だったのでしょう。たしかに過ちをおかし収監された人にちがいない。しかしみずからの力で歩くこともできない人間を刑務官が脇からかかえて強引に立たせ首に絞め縄をかけたのです。これを可能にする倫理というものがいったいどこにあるというのか。(43−44頁)


ひとりで歩けない老人を刑場に連れて行き、
頭に袋をかぶせて、首に縄をかけて、殺害するクリスマスの日本。

しかし日本では誰もこのことに思いをめぐらせない。

この春、ひとりの東京都の公立中学校教師が不起立を理由に学校から追われようとしています。何年にもわたってみずからの良心に従って不起立を貫いてきた先生です。(55頁)


こういう本当の良心的な教師を、日本社会はどのように扱ったのか?

黙殺である。

映画『靖国』の上映が都内で禁止になりました。これは公権力が暴力的に上映を中止させたのではない。映画館が空気を読んで決定したのです。……また、JR岡山駅で18歳の少年が居合わせた乗客を線路に突き落とす事件があり、事件後に謝罪記者会見にのぞんだ容疑者の父親がジーパン姿であったことがインターネット上で責めたてられました。


怖ろしいことである。

これが日本の社会を支配している「世間」というものである。

 2003年7月11日、鴻池祥肇・青少年育成推進本部副本部長(担当大臣、当時)が長崎で起こった誘拐殺人について閣議後の記者会見でこう発言しました。「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ」、「親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」。


唖然とする発言である。

愕然とする知的レベルである。

だが、日本は、こうした問題発言を強く批判するよりも、
暴言に同調する意見さえ噴出してしまう程度の愚劣な国なのである。

 かつて、ひそひそ声で陰で囁かれていた世間の声が、メディアが世間と合体したことによってこの国に公然とまかり通るようになったのです。世間は新聞やテレビメディアだけではなく、インターネットの世界にまで拡大しつつある。世間という不思議な、非言語的、非論理的な磁場からくる加重が、かつてよりずしりと重く私たちにのしかかっている。それと反比例するかのように、われわれの愛は薄く、軽くなっていくのでしょう。(59−61頁)


この世間こそが、人権思想を踏みにじっているのだ。

世間が卑劣なひとびとを増殖させているのだ。

そしてもっとも世間の風当たりが強くなったのが、次の事件である。

2007年、山口県光市の母子殺人事件がたいへんな問題になりました。……ある日インターネットを眺めていると、この事件の被告人を弁護する人たちが強硬に叩かれ、弁護団が「公共敵」とまで名指されているのを知りました。


被告人を弁護するのが弁護士の仕事である。

それにもかかわらず、弁護士たちが猛烈なバッシングにさらされた。

法や人権に対する無知が、この国のひとびとの特徴である。

これはもう日本国民による「リンチ」である。

公共敵、英語でいうパブリック・エネミー(Public Enemy、PEと略される)。アメリカではヒップホップの形成に大きな影響をあたえたグループの名として知られ、彼らは政府やマスメディアなど既成の権威と対決する姿勢を歌詞にし、アメリカの、アフリカ系アメリカ人がかかえている社会・政治問題への活発なかかわりで知られています。彼らパブリック・エネミーはブラック・ヒーローとして、ヒップホップ文化を受容した若者たちには一種のオピニオン・リーダーとしても敬意をもたれている。


しかしこの国では、「パブリック・エネミー」はまったく別の意味で使われる。

 同じ「公共敵」という言葉がこの国では人を貶め中傷するために使われる。……当時、「あの弁護団にたいして、もし許せないと思うんだったら、懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と、懲戒請求をおこなうよう視聴者にうながした弁護士が大阪府知事に就任しました。テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさもこの国に特有の日常です。(63−64頁)


「糞のようなタレント」とは、言うまでもなく、現大阪府知事の橋下徹のことだ。

この問題はその後裁判になり、橋下が負けたことは報道されたとおりである。

そして、そのときの裁判官に、
「弁護士の仕事を理解していない」とたしなめられてしまったのも、
記憶に新しいところである。

橋下徹のような極右ポピュリストが大阪で人気を博しているのは、
そもそも大阪府民にとって「恥」以外の何ものでもないのだが、
ひとびとが「世間」という人権感覚を欠落させた無責任空間に巣食っているからだ。

そして今やテレビ画面のなかには、
「糞のようなタレント」ばかりがデカイ面をしてのさばっている。

宮崎哲弥、勝谷誠彦、みのもんた、などなど。

「糞のようなタレント」が番組で重宝され、無知と暴言をふりまいている。

この国では公共圏を世間と同一視して、逆用する。ハンナ・アーレントが「公共圏での自己こそが唯一、真の、本来の自己である」と論じた「公共」を「世間」と取り違えて逆用している。そして「世間」に乱調をきたす人間を「公共敵」と名指す。それがこの国のファシズムの手口ではないでしょうか。(68頁)


医療事件をめぐって、遺族を口汚くののしる卑劣な連中がいる。

彼らも、自分たちの狭い「世間」のなかで無責任に生きているのである。

彼らこそがファシズムの担い手であることを、ここで再確認しておきたい。

これについては、「卑劣なひとびと」をご覧いただきたい。

卑劣な連中の恥知らずなコメントの見本が見られる。

ひょっとすると彼ら自身が医療従事者である可能性もあるのだから、
これは怖ろしい世の中である。

「渡る世間に鬼はない」

「世間にたいして申し訳が立たない」

「世間の目がうるさい」

「世間に顔がきく」

ひとびとが何を気にして生きているのかというと、それは「世間」なのである。
それは戦前も今も変わっていない。

あくまで顔色をうかがうべきは世間なのです。山口県光市の母子殺人事件の弁護団にたいしていうとすれば「世間を敵にまわした」ということになるのでしょう。……世間を敵にまわすことがこの国での最大の悪事だということが、弁護団をとりまいた過剰なバッシング報道、感情的な反応、卑劣な揶揄をみればわかるはずです。(69頁)


世間体ばかり気にする親に反抗してきた子どもたちも、
成長していくにつれてどっぷりと「世間」に埋もれていくのである。

「世間」に敵対的であるはずの不良たちも、じつは同様である。

societyやpublicは個人の尊厳を前提しますが、世間では個人が陥没する。(70頁)


個人を抑圧するのが「世間」である。

言葉で強要されることはないけれど、かわりに気配や空気で無私であることが期待される。(71頁)


だから「世間」は、本質的に「いじめ」の空間なのだ。

そして、世間がもっとも言祝ぐものが皇室です。その皇室からあたえられる叙勲・褒賞というものを世間は非常に喜びます。(72−73頁)


皇室によって与えられる勲章にひとびとは手なずけられていく。

ホイホイと尻尾をふって権威にすり寄るのである。

日本の文化人、作家、学者、政治家など、彼らの大半が喜びとともに受勲し褒賞を受け、いそいそと宮中へと出かけ、世間はそれを言祝ぐ。私にはその心性の所在がどうしてもわかりません。でも、ぞっとしながら察しています。受勲・褒賞は日本の湿潤なファシズムとなにやら関係があるらしいということ。そして、それをいいつのることが日本的に地上の諧調を乱すことにほかならないということを。
 詩人も受勲し褒賞を受ける。シンボリックにいうと〈幸せな詩人たち〉、私はこの人たちがもっとも罪深いと思っています。〈幸せな詩人たち〉ほどひどい人間はいない。〈幸せな詩人たち〉はどこに人を殺すと書くこともなく、なにを悪辣な言葉で汚すこともなく、きいたふうな言葉で世界をきれいなものに装わせてしまう。まったく手を汚すことなく世間に同調し、あるいは安全なところで世間を支えさえするでしょう。これほど偽善的なことがあるでしょうか。(73−74頁)


なんだ、やっていることは北朝鮮の金正日体制と何も変わらないではないか!

この国の日常は〈非言語系の知〉、主体のはっきりしない鵺のようなものが支配している。(74頁)


「鵺」とは、辺見庸が繰り返し使う独特の言葉である。

さて、死刑をめぐる講演で、どうして皇室が出てくるのか?

無関係ではないからだ。

この国の死刑はじつに不思議で呪術的なしきたりにしたがっておこなわれています。……刑場の位置、ならびに刑場において死刑囚が立たされる地点は十二支でいう丑寅、北東の方向に定められています。丑寅は鬼門です。……この方角にたいする感覚は、畏れおおくも宮中に一直線につながっている。宮中の祭祀は丑寅の対角線上でおこなわれ、なるほど死刑執行はその真逆、穢れが立つ場所としてあるのです。(75頁)


先日、ドイツで作家ギュンター・グラスのある「告白」が大きな話題になった。

2006年、ドイツの作家ギュンター・グラスが、第二次世界大戦時にナチスの武装親衛隊に所属していたことを突如告白しました。(95頁)


彼はノーベル文学賞を受賞している著名な作家で、
『ブリキの太鼓』などで知られている。

ギュンター・グラスがナチスの親衛隊であったほんの1年間。同時期の日本ではなにが起きていたでしょうか。……
 私たちはとうの昔に忘れたような顔をしていますが、日本人は中国や朝鮮で現地の人を相手に生体実験をやっている。私が読んだ証言では、少なくとも4000人の医療関係者が生体実験にかかわっていたそうです。その4000人のうち、生体実験の事実とみずからの人生をギュンター・グラスのように告白した人がいったい何人いるでしょうか。私の知るかぎりひとりしかいない。(98頁)


1990年代に韓国の元「慰安婦」だった女性が名乗り出たとき、
日本の右派・ナショナリストたちは恥知らずにも「何を今さら」と述べた。

彼らはギュンター・グラスに対しても、同じような「罵声」を投げかけるのだろうか?

辺見庸は、死刑の問題を「世間」と結びつけて考察する。

そして死刑が「国家による殺人」であることをあらためて確認する。

死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです。(109頁)


この死刑を国権の発動として捉える視点には、大いに賛成したい。

これを敷衍して考えてゆくと、他国民にも死刑を拡大していくのが戦争というものなのではないか。戦争とは大規模な死刑執行のことではないか。したがって死刑と戦争は通底すると考えざるをえない。(109頁)


さらに加えるならば、国権の発動としての暴力に、死刑・戦争だけでなく、
拷問も入れるべきであることをわたしはあらためて強調しておきたい。

このことについては、以前「太田昌国『暴力批判論』(太田出版)」で書いた。



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
敗北を抱きしめて』の記事を紹介させていただきました。
http://ameblo.jp/san...
2009/04/07 09:29
◆なんとお呼びしたらよいか……

はじめまして。このブログの記事を紹介してくださったようで、ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
影丸
2009/04/08 16:10

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辺見庸『愛と痛み――死刑をめぐって』(毎日新聞社) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
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