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zoom RSS 石井淳蔵『ブランド』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2008/12/06 01:01   >>

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高度消費社会では、ブランド化戦略が経営の重要な鍵である。

もはや消費者のニーズに企業が応えるという単純な関係ではない。

「ニーズ」は決して「自然なもの」ではないからだ。

たとえば、大塚製薬の「ポカリスエット」は、それが市場に導入された当初は、アイソトニック・イオン飲料という医薬品のような体裁をとって発売され、その後、そのコンセプト・ターゲットをかえてきている。「二日酔いや風邪を引いたときの水分補給に」とか、「スポーツ選手のための飲料」とか、とどちらかといえば効能を強調していた時代から、今やふつうの若い人がふつうのときの飲む飲料へとかわってきた。(42頁)


商品は、戦略を変更しながら、ターゲットを変更しながら、生き残る。

「コカ・コーラ」ほど、そのコンセプト、ターゲット、媒体を大きく変容させてきたブランドはないように思える。当初は、薬としての薬効を強調したり、炭酸水売場でカウンター越しに売られる商品であったといえば、その変化ぶりが類推できるだろう。(85頁)


いま薬効を期待してコカ・コーラを飲むひとは、ほとんどいないだろう。

それにしても、コーラなんてもう何年も飲んでいないなあ。

大人になるってこういうことなのだろうか。

他方、コンセプトやターゲットを変えるのではなく、
商品自体がころころと変更される例もある。

……日本市場では、……洗濯機でも冷蔵庫でも同じようにつぎつぎに新モデル・新機種が発売される。洗濯機も冷蔵庫も、毎年毎年、7−8社ある電機メーカーから新しいモデルが発売される。アメリカでは、メーカーは少なく、しかも何年にもわたって同じモデルを発売し続けているのとは対照的である。(47頁)


こういう現象は、端的に言って環境破壊的であろう。

近年、ケータイ電話もほんの数年(2〜3年)くらいで買い換えると言われるが、
これは資源の無駄遣いであるばかりか、
企業にふりまわされる消費者の哀れな姿である。

ケータイを持っていないわたしは、よくひとから「なぜ持たないのか?」と聞かれる。

しかし、ケータイを持っているひとは「なぜ持つのか?」と聞かれない。

不思議なことである。

次に挙げるエピソードはおもしろい。

コカ・コーラ社は、「コカ・コーラ」の新商品を開発した。

1985年に、それまでの「コカ・コーラ」に代わって「ニューコーク」が導入された。

発売前に、19万人もの消費者を対象にして味覚実験が行なわれ、
その調査によって「ニューコーク」の方が従来の「コカ・コーラ」よりも、
はるかに味がすぐれているという結果が出た。

100人中61人までが、「ニューコーク」の方がおいしい、と答えた。

コカ・コーラ社の経営陣は、自信をもって「ニューコーク」を発売した。

ところが、予想外の反応が起きた。

〔3月の発売後〕1週間もたたないうちに、毎日1000本を超える電話が無料消費者ホットラインに殺到し、その大半がニュー・コークへのショックと怒りをぶちまけるものであった。……
 5月半ばになると、1日に5000本の抗議の電話が、消費者ホットラインを担当する気の毒な社員の耳に非難の言葉を浴びせるようになっていた。〔中略〕
 6月初めになると、1日8000本の電話が殺到し、マスコミはまだこの話題で持ちきりだった。〔中略〕
 電話に加え、コカ・コーラ社には4万通を超える抗議の手紙が舞いこんだ。(87頁)


散々な結果であった。

経営陣が「消費者にもよかれ」と思って発売したすぐれた品質の「ニューコーク」は、思いもよらず、「それは私のコカ・コーラではない」と当の消費者によって拒否されたのだ。ブランドの中身は、企業が自分の勝手に変更できるものではない。ブランドは企業の財産だといっても、企業の意のままにはならない財産なのだ。(89頁)


企業が生み出した「ブランド」であっても、企業が自由に操れるものではない。

それが「ブランド」なのである。

もちろん消費者の側に主導権があるというわけでもない。

たとえば、気分をかえるために缶コーヒーを飲みたいと思い、そして好きな缶コーヒーを自販機で買う。これは、ふつうのことである。消費者が気分をかえるためであろうと何であろうと、「缶コーヒーを飲みたい」という欲望があってそれを満たしたいと思い、そのために缶コーヒーを探し、缶コーヒーを販売する自販機を見つけたというわけだ。
 しかし、なにげなしに道を歩いていて、「ジョージア」を売っている自販機が目に入り、そして「ちょっとひと休みするか」と思って「ジョージア」を買う。これはどうだろうか。そう、ふつうではない。
 二つの違いは何か。前者は、欲望が先にあってそれにふさわしい商品が探索されるといういわば合理的世界での話であり、「欲望が主で、商品は従」という何の不思議もないありきたりの過程である。後者は、そうではない。そこでは、「ジョージア」みずからが消費者にたいして「ちょっとひと休み」という欲望にはたらきかけ、それが「ジョージア」の購入に結びついているからである。それは、ブランドが欲望の生成に強くかかわった過程、つまり「ブランドが主で、欲望が従」という過程である。
 ブランドが消費者にたいしてメッセージを発信しているというのは、そのブランドに向けた消費欲望が新たに創出されている(その言い方が強すぎるのであれば、消費欲望が触発されている)ことにほかならない。(179−180頁)


ここでは、「ブランド」が消費者の「欲望」を新たに生み出しているという構図だ。

しかし厳密に言えば、「缶コーヒーが飲みたい」という欲望だって、
決して「自然な欲望」なのではない。

江戸時代のひとびとは「ああ、缶コーヒーが飲みたい」などとは思わなかった。

こういうところが、筆者は甘い。



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
筆者は江戸時代ではなく現在の話をしているのに、甘いとは何を言ってるんだか。
く○き
2012/06/25 22:57
◆く◯きさま

何を言ってるんだか分かりませんか? だから「甘い」と申しておるのですよ。
影丸
2012/07/28 13:48

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