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1960年代の学生運動から近年のサブカルチャーまで、 日本のナショナリズムと右傾化する若者について考える本である。 タイトルが「笑う」ではなく「嗤う」となっているのは、 「アイロニー的感性」の変化を軸にして日本人の精神性を捉えているからだ。 きょうの記事は引用が断片的で読みにくいかもしれないが、 気になるところを中心にとりあえず書いてみたいと思う。 70年代以降の若者論の基本的な論調、「最近の若者たちの関係は希薄で、政治への関心が薄い」という“常識”が通用しない世界――実存主義と政治指向が縫合不全を起こすことなく併存する世界――にかれらは生きているのである。(21頁) この指摘は大事なものである。 当たり前といえば当たり前なのだが、 「最近の若者は……」といった退屈な語り口がまだ繰り返されているのだから、 これは何度でも強調しておいていいことだ。 筆者は、1960−70年代初頭を「思想による自己実現」の時代と位置づける。 1970年3月31日、「国際拠点地」建設のため、 赤軍兵士たちは日航機よど号をハイジャックし北朝鮮へと旅立った。 田宮高麿をリーダーとするこのグループは、次のような有名な声明文を発表した。 「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきたことを知らない。……最後に確認しよう。われわれは“明日のジョー”である」……。(79頁) この世代の連中はいま、かつての「武勇伝」を自慢げに若者に語ることで、 かろうじて自分たちのアイデンティティを確保している。 もちろんごく稀に現在を闘争的に生きようとしているひともいるが、 きわめて少数であろう。 それに対して、1970年代末−80年代を「消費による自己実現」の時代と捉える。 ……70年代以降の若者向けのポピュラー・ミュージックにおいては、「歌詞の意味を伝えることよりも、サウンド自体の快楽が優先されるように」なっていた。沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」をパロディ化したタイトルを持つ、サザン・オールスターズの『勝手にシンドバッド』のように、言葉をサウンドに「のせる」ことを優先し、意味論的な失効を逆に楽しんでしまうような歌詞が、ヒットチャートの上位を賑わせるようになっていたのである。(94頁) 思想の時代は終わりを告げる。 そしてひとびとは、消費のなかで差異とたわむれるようになる。 ここで筆者は、「西武・PARCO」のコピー・ライター糸井重里の仕事を検討する。 わたしはほとんど記憶にないのだが、 「ヘンタイよいこ新聞」という読者投稿を取り入れたメディアが登場したという。 読者が日常のお笑いネタを投稿するというものだが、 どんなものがあったのか、例を挙げてみよう。 「ビンボーなものとは、写真やイラストだけで画面が動かない群馬テレビのCMです」 いま見ると、 おもしろいんだかおもしろくないんだか、よく分からないところもあるが、 ここにおいてアイロニカルな感性を共有する内輪空間が成立していったという。 ちなみに、読者投稿というとわたしが想起するのは、 谷村新司・バンバンの『天才・秀才・バカ』である。 さらにテレビ番組のあり方もここで大きく変化していく。 よく知られるように、フジテレビによって主導された80年代のテレビ文化は、70年代までに形成されてきたテレビ演出の方法論=「お約束」をパロディのモトネタとして相対化し、《裏》リテラシー――イマ‐ココの外部にある情報を収集する能力――を共有する受け手たちの「巨大な内輪空間」を形成していった。(152頁) 「おもしろくなければテレビじゃない」というコピーを掲げたフジテレビは、 テレビの娯楽化と「巨大な内輪空間」の形成を牽引していくことになるのである。 では、ここで何が起きたというのだろうか? ……アイロニカルなポジションに立つこと(お約束を嗤うこと)それ自体が、視聴者があらかじめ体得しておくべき身体技法として前提されていたということである。アイロニカルなポジショニングは、もはや距離を置くべき「何か」に対して採られるもの(「抵抗としての無反省」「 むずかしく聞こえるかもしれないが、 「お約束を嗤う」という感覚はよく理解できるのではないか。 ヘーゲル学者のアレクサンドル・コジェーヴは、高度消費文化における物質生活に安住するアメリカ的「動物」と対比して、無意味ともみえる形式の反復に興じる日本的「スノッブ」の存在を指摘した。コジェーヴは、所与の環境を否定すること――たとえば、生死が賭される革命や社会変動、社会闘争にコミットすること――を歴史を駆動させる「人間」の条件とみる。しかしアメリカ的「動物」も日本的「スノッブ」も、「所与の環境の否定」という弁証法的な歴史が終焉するところに生きている。前者は、豊かな物質文化のなかで動物的な欲求を満たしつつ、「否定」など思いもよらずに生をやりすごし、後者は、否定する必然性のないものを、あえて「否定」してみせることによって、擬似的な(弁証法的でない)歴史に戯れてみせる。生死とかかわりのないところで形式的に繰り出される「否定」を、様式的に洗練していくこと、それがコジェーヴが日本に見いだした「スノッブ」の精神である(茶道や能楽、華道がその典型とされる)。(166−167頁) 次に筆者は、日本のテレビと視聴者との共犯関係の問題を明らかにするために、 ナンシー関という稀代のコラムニストを取り上げる。 ナンシー関は、じつはわたしも大好きだった。 ナンシー関は、どういうものを憎んでやまなかったのだろうか? 筆者はそれを次の3つにまとめている。 (1) バラエティ・タレントの跋扈 (2) 「笑い」の「感動」への転化 (3) 「ツッこみ」的な視聴スタイルをとることによって(1)(2)を許容してしまう視聴者の「頽落」 詳細は本書に当たってほしいが、 例えばどのようなことなのかを引用してみよう。 (1)の「バラエティ・タレントの跋扈」について。 まず第一に、ナンシーは、スタジオのなかで視聴者の振舞いをなぞりかえすようなタレントたちの「無芸」を容赦なく批判した。槍玉に挙げられているのは、森脇健児、山田雅人、中山秀征といったバラエティ・タレントたちである。「森脇健児とか山田雅人とか。人を笑わせたこともないのにお笑いを名乗るなよな。/私が最近一番嫌なのが中山秀征(元ABブラザーズ)。こいつの態度たるや噴飯もの。基本的姿勢は『最後まで気取れないのがお笑いの宿命なんですよ、オレって』であるが、こいつはお笑いなのか。/誰も認めとらんぞ。/基本的なところでお笑いを差別している。お笑いは無審査だと思っている」。(177−178頁) さすがナンシー関先生である。 鋭い指摘だ。 中山秀征はいまだに健在であるが、 森脇健児、山田雅人らはすでに画面から消えて久しい。 わたしならこの噴飯ものリストに「Take 2」や「オリエンタルラジオ」を加えてやりたい。 「千原兄弟」を入れてもよい。 「森脇健児が自分なりにこれがおもしろいんだみたいなことを考えて、日々いろんな仕事をこなしているという点に関しては、あたしに口出しする権利はないと思うんです。そりゃ内心は文句をいいたいですよ。『おい、田舎に帰れよ』って(笑)。でもそれはいっちゃいけないというのが大人の分別としてある。そうすると抑圧された怒りは、森脇健児のようなタレントが便利がられて、テレビつければ出ているという現象に向かうんですよ」。(178頁) 次に(2)の「笑い」の「感動」への転化について。 象徴的な出来事が、オリンピック水泳選手の「千葉すず」へのバッシングだ。 「千葉すずが受け入れられなかった理由は、視聴者(本来はもちろん観戦者であるが)が勝手につくった『感動をありがとう』に着地するはずの物語に乗ってくれなかったからである」。 分かりやすく言えば、「ノリのわるいひと」や「空気が読めないひと」は、 徹底的に攻撃され排除されるようになってしまったということである。 問題になっているのは、感動そのものではない……。感動を媒体として築き上げられる送り手=受け手の共犯構造、テレビ的フレームによって世界全体を包摂し尽くそうとする(=世界をことごとくテレビの素材へと転化しようとする)不遜な欲望こそが、問題なのだ。(181頁) ここで言われている「共犯構造」という捉え方が重要だと思う。 ナンシーが断固拒絶したのは、アイロニズムを通過したがゆえに生起するテレビの全体主義だったのである。(183頁) こうして(3)の「ツッこみ」的な視聴スタイルをとることによって (1)(2)を許容してしまう視聴者の「頽落」の正体が見えてくる。 「能力の有無にかかわらず、ハウツーだけをにわかマスターして、その気になっているタレント」たちを増長させているのは、「そのトーク自体のおもしろさで判断せずに『いいタイミングでボケたから』などということで『おもしろい』と認識をしてしまったり」する視聴者だし、猿岩石を「『バラエティー・お笑い』の範疇」を超えた感動劇の主人公に仕立てあげてしまったのは、「鵜の目鷹の目で感動を拾おうとしている視聴者」にほかならない。(184頁) そして、テレビ空間で繰り返されるタレントたちの振る舞いを、 「一般人」たちは日常生活のなかで恥知らずにも模倣するばかりなのだ。 「そこ笑うところじゃないから」 「ねえねえ、ボケたんだからちゃんとツッこんでよ」 こうしたお笑いタレントをマネしたセリフを、 わたしたちは何度聞かされてきたことだろうか。 「以前『小倉智明はどうして色んなモノに対して詳しいのだ。特にオーディオに関しては秋葉原の顔らしいが、何故?』という原稿を書いた時、それを読んだらしい小倉本人(側)から連絡をもらった事がある。連絡をくれればその疑問に答えましょう、という御厚意であった。ありがたい事ではあるが、当然連絡はしなかった私である。本当の理由など知りたかないのだ。私は小倉に『何故?』と問いかけたかっただけなのである。いや、本人の目に留まることすら望んではいない。私はただ『私は小倉に『何故?』と問いかける者である』ことを明らかにしておきたいだけなのだ。」(187頁) こういうところが、ナンシー関先生の素晴らしいところである。 このようなテレビと共犯関係を築いた視聴者のアイロニカルな感性が、 「2ちゃんねる」に跋扈するアイロニズムを準備したのである。 2ちゃんねるは、おそらくはナンシー関が批判し続けた90年代的な純粋テレビ的シニシズムとその存立「構造」を共有している。構造化されたアイロニズムと「感動」志向の共存、世界をネタとした「ツッこみ」=嗤いと「感動をありがとう」的感覚との共棲――純粋テレビの90年代的「転態」をさらに純化させたものが2ちゃんねるなのではないか、私はそう考えている。(196頁) 2ちゃんねるに書き込みをするひとびとは、メディアへの嘲笑を繰り返すが、 それはメディアと距離を置き、自律的な知性でメディアを批判しているのとは異なる。 ……重要なことは、かれらの挙動の背後にマスコミへの過剰にすぎる愛が見え隠れしているということだ。マスコミへの嗤いはたぶん、鬱屈したルサンチマンから起こっているのではない。むしろマスコミによって「嗤い」の感性を育まれた人びとが、その愛ゆえにマスコミを嗤っていると考えるべきである。(197頁) 2ちゃんねらーは、マスコミの産物なのである。 メディアの演出に対する高度なリテラシーを持つがゆえに、お約束的な形式を嘲笑するような態度、それをとりあえず「純粋テレビ的アイロニー」と呼んでおくこととしよう。この純粋テレビ的アイロニー、高度な《裏》リテラシーの「大衆化」は、二つの社会学的意味を持っていたと考えられる。 これはどういう意味なのだろうか? しかし、こうした《巨大な内輪空間》は、ギョーカイネタを繰り出して悦に入る送り手と、ギョーカイ指向の強い受け手との馴れ合った共犯関係をただたんに擬制していただけではない。80年代テレビ文化によって育まれたお約束に対するアイロニカルな距離感覚は、同時に、テレビを含むマスメディア一般に対するシニシズムも生み出しつつあった(それもまた高次の共犯構造のなかに回収されていく、というのがナンシーの喝破した純粋テレビの「構造」だったわけだが)。この逆説が、留意すべき第二の社会学的含意である。(200頁) シニシズムも、ここでのキーワードになるだろう。 とりわけ80年代以降、ワイドショー的構成をとった報道番組が増加する(報道がバラエティ的形式に依存せざるをえなくなる)につれ、ジャーナリズム的建前と扇情的な内容を持つ情報を不断に提示し続ける実態との乖離は、誰の目にも疑いようがなくなる。(201頁) すでにわたしたちは、 おどろおどろしいBGMや効果音とともに報道が演出されていることに、 何の違和感も抱かなくなってしまっている。 逆に、NHKのBGMなしのニュース番組の方こそ、 視聴者には物足りなく感じるようになっているのである。 80年代の純粋テレビが醸成してきた、(1)マスメディアを結接点として成り立つ巨大な内輪空間へのコミットメント(メディアへの愛)と、(2)マスメディアに対するシニカルな態度(マスメディアへのシニシズム)。(201頁) 日本の高度消費社会はさらに進化する。 ……自らと非常に近い位置にある友人との《繋がり》を重視するようになる。重要なのは、その《繋がり》が、「共通する趣味」「カタログ」のような第三項によって担保されるものではなく、携帯電話の自己目的的(コンサマトリー)な使用(用件を伝えるためではなく、「あなたにコミュニケーションしようとしていますよ」ということを伝達するためになされる自足的コミュニケーション)にみられるように、《繋がり》の継続そのものを指向するものとなっているということだ。理念・共有価値の支えなき共同体。(206頁) だから、2ちゃんねるに書き込みをするひとびとは、 決して特殊なひとたちではない。 電車に居合わせたオヤジの風貌や教師の「寒い」ギャグをメールで友人に実況する若者は、世界を《繋がり》のためのネタにしている点において、テレビ番組を肴にパソコンに向かう2ちゃんねらーたちと変わるところはない。(208頁) だからこそ、問題なのである。 はじめマスコミの建前(形式)/実態(内容)のズレに照準した批判であったものが、やがてアイロニー的コミュニケーションの継続を目的化するようになり、形式/内容の差異を無理やりにでも読み込もうとする陰謀論的態度に帰着してしまう――これが2ちゃんねるに跋扈する「ウヨ厨(ちゅう)(むやみに右翼的な書き込みをする『厨房(ちゅうぼう)=中学生の坊主のようにガキっぽい書き込みをする人びと』)」たちの姿である。純化された形式主義者たるかれらにとって、「朝日」が「何を」書いているか・意図しているかはじつはそれほど重要なことではない。もし仮に「朝日」が「らしくない」ことを書いていれば、「それも『朝日』の狙い」「『朝日』必死だな」といった具合に、陰謀論的に処理してしまえばよい。いかなる内容を持った記事であっても、それが「朝日」に掲載されている限り、いわば文法的に「朝日」を嗤うコミュニケーションのネタとして機能してしまうのだ。(209頁) 「朝日」とは「朝日新聞」のことである。 そして、陰謀論的なものの見方に汚染されてしまったひとたちは、 昨今の歴史偽装ときわめて親和的であることも、見やすいところであろう。 「中国や韓国による反日の陰謀」(笑) 知識的基盤を持たない幼稚な被害妄想があらわになる。 ここで筆者は、2004年に起こった象徴的な事件を2つ取り上げる。 明確な「反左派」的意志に貫かれた「イラク人質被害者」バッシングと、「右派」にとって有用性に富んだ資源でありうる拉致被害者家族会に対して向けられたバッシング。2つのバッシングの「共存」の事実は、私たちが内在する言説空間がもはや左派/右派というイデオロギー的対立軸をはみ出してしまっていることを実証している。(215−216頁) 左派/右派のイデオロギー対立はすでに無効になったという指摘は、 それこそ冷戦後にはありふれたものである。 ここはおいそれと筆者に同意するわけにはいかない。 だが、次の筆者の指摘はそのとおりであろう。 「思想なき思想」であるがゆえの「ナショナリズム」「反市民主義」「反マスコミ」。この空虚ではあるが、したたかな反・思想が、「ポスト80年代」のアイロニー・ゲームを下支えしているのである。(218頁) というわけで、少々長くなってしまったが、 80年代のサブカルチャーなどが豊富に取り上げられていて、 本書を読んでいて懐かしい気分になった。 最後に、この本が紹介してくれるまでわたしは知らなかったのだが、 2ちゃんねるに投稿されたナンシー関への見事な「弔辞」を引用したい。 そんなわけで、急死である。いきなり誰のことかと思えば、なんと私だ。いやー、参ったね。まさか自分が死ぬことになろうとは。 これを読んで、何が見事なのか皆目分からないひともいるだろう。 しかし、ナンシー関の愛読者にとっては、これは見事な出来栄えの「弔辞」なのである。 |
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