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zoom RSS ハーバート・ビックス『昭和天皇(下)』(講談社)

<<   作成日時 : 2008/11/01 03:22   >>

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前回のつづき。

繰り返すが、天皇ヒロヒトは決して平和主義者などではなかった。

対外的に昭和天皇は日本社会の道義の規範であり、高貴な民族の価値を体現した存在であり、自らが言う大御心の象徴だった。舞台裏で戦略の策定や戦争指導にあたる最高司令官としての役割は、周到に隠されていた。しかし、国民党との四年間におよぶ戦争で、昭和天皇は最高司令官としての役割を果たし、その体験を通じて、戦争全般に対する態度を変えた。そして、ついには、より大きな目的に向けて進んで危険を冒すこととなった。(9頁)


日本のメディアがどんなにデマを流しつづけようとも、
わたしたちは「天皇=平和主義者説」には洗脳されないぞ。

さらに昭和天皇は毒ガスの使用について直接的な責任がある。毒ガス兵器は、多くの中国やモンゴルの戦闘員・非戦闘員を死に至らしめた。「日華事変」が全面戦争となる前、すでに天皇は化学兵器の要員と装備を中国に送ることを裁可していた。(10頁)


どうだろうか?

オウム真理教の教祖麻原彰晃と天皇ヒロヒトと、一体何がちがうのだろうか?

昭和天皇は、いつの間にか、長く血塗られた第二次世界大戦への道を下り、天皇に忠実に仕える東条を誉め、対米戦争を止めようとしていた近衛を「確乎たる信念と勇気を欠」くと評していた。戦後、戦犯容疑者として天皇ではなく、近衛が逮捕されたのは、いかにも皮肉なことであった。(58頁)


ここからも、ヒロヒトがどういう人物だったのかが分かる。

天皇から皇太子(現在の天皇アキヒト)に宛てた
9月9日付〔1945年〕の手紙というのがある。

このなかで、日本の政策決定過程で彼が中心人物であったこと、
そして敗戦の主要で全般的な原因を招いたことには触れずに、
次のように説明している。

我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県〔有朋〕 大山〔巌〕 山本〔権兵衛〕等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである(155−156頁)


でました、無責任男。

このヒロヒトという男は、いったいどこまで無責任なのだろうか?

いったいどこまで自己中心的なのだろうか?

支配エリート層にまで迫りくる戦犯追及の危険性に驚愕した東久邇内閣は、9月12日、日本独自の戦犯裁判を開廷することで、連合国から主導権を奪い取ることを急いで提議した。しかし、天皇自身はこれに躊躇した。戦争犯罪人が天皇の名のもとに国内法で裁かれることになれば、彼は矛盾した立場に立たされ、著しい苦境に陥っただろう。(197頁)


なぜヒロヒトは躊躇したのか?

当然であろう。

だって戦争を指導したのは天皇本人なのだから。

より重要なのは、東京裁判が、勝者対敗者といった単純な敵対関係の過程ではなかったという点である。パルが激しく展開した「勝者の裁き」という非難は、問題を極端に単純化したままいまも残り、裁判の実像をかえって理解しにくくしている。実際には、東京裁判は日米合作の政治裁判といってよかった。裁判がまだ準備段階にあった頃、舞台裏では天皇とその側近たちが戦争犯罪の責任を負うべき人物の選定に協力し、影響力を行使していた。(226頁)


東京裁判が日米合作の茶番劇だったということは、以前もこのブログで書いた。

ところで、なぜ戦後の日本人は無責任になったのだろうか?

筆者は次のように説明する。

多くの日本人に残る「聖戦」意識や古い価値観の連続性が、戦争犯罪の暴露に続く、日本人の内省の時間を切りつめてしまったことは疑いないであろう。日本人の多くは、戦争というものは、双方に過ちがなくても国家間に起こり得る自然な社会現象のように考え、そうした思考が戦時の中国での残虐行為に対する反省を妨げてきた。……とはいえ、日本人が戦争犯罪の問題についてかくも早く忘れ去った主な原因は、裕仁その人に関係している。天皇が戦争中の役割、とくに日本の軍隊に忠誠心や勲功より倫理性を重視する行動基準を持たせることができなかったことを理由に裁判にかけられ、法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性――アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念――は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行について天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分たちに責任を負う必要などあるわけがないと考えた。(229−230頁)


過去の侵略戦争を「聖戦」と捉えている。

しかも、古い価値観がいまだにこの日本社会には残っている。

そして何よりも、天皇制がいまだに存続していることである。

……52年1月31日、33歳の保守政治家中曽根康弘は、衆議院予算委員会の質問で、彼が「平和論者」と呼ぶ天皇が「皇太子も成年に達せられ」た今日、「過去の戦争について人間的苦悩を感ぜられて」退位すれば、「遺家族その他の戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基礎を確立」するだろうと主張した。首相の吉田は、退位を希望するようなものは「非国民」だと不機嫌にきめつけ、国民は中曽根の主張を無視した。(255頁)


中曽根がそのような「大胆」なことを主張していたことがあったのである。

「英霊」とは、戦争で大きな功績を挙げた傑出した個人を意味し、かつては「聖戦」の観念と結びついていた。そしてまた、天皇制国家の積極的な容認と、憲法が規定する戦後的価値観の否認とを含意していた。(261頁)


「英霊」と「聖戦」を信仰するもっとも象徴的な施設こそが、靖国神社である。

戦後は、戦前の価値観や政治体制が否定されたはずだった。

しかし、戦後間もなく、さまざまな形で戦前の体制の復活が図られてきた。

たとえば「叙勲」である。

池田〔勇人〕はまた、占領中に停止された叙勲を復活させた。本来これは明治憲法の規定により、国家に重要な貢献をしたすぐれた人物に、天皇が勲章を授ける制度である。皇居で行われる叙勲の式典は、優秀さと政治的穏当性を基礎に価値序列をつけ、同時に天皇を頂点とする社会の階統を強化するものであった。63年から軍人を含む生存者叙勲が、翌年には戦没者叙勲が復活した。63年以後、自民党の首脳は年に2回叙勲者の名簿を作成して天皇に提出するようになった。通例は選挙をにらんで行われるこの叙勲は、功績ある人物を顕彰するだけでなく、国民の自民党支持をうながす役割を持ち、まさにそれこそが彼らの狙いだった。与党の支持基盤を広げるための叙勲の拡大は、外国にも似た例はなくはないが、天皇制の新しい利用法であった。(269頁)


勲章は、天皇との権威主義的なつながりだ。

勲章を授与することで、国民の家畜化がすすめられていくのだ。

戦後、天皇ヒロヒトは平和主義者だったというデマが信じられていった。

もともと天皇は「実権」を持たない「象徴」だったのであり、
「象徴天皇制」こそが天皇制本来のあり方だとも言われた。

しかし、これもまた事実として間違っている。

戦後も天皇ヒロヒトは政治に裏で関わりつづけたのである。

憲法に反するにもかかわらず、いわば好意として、天皇は外交・軍事の問題に関してひそかに非公式の報告を受けていた。政府の指導者に意見を伝える機会が天皇にあったことは、73年5月で日本国民は知らなかった。このとき、田中内閣の防衛庁長官増原恵吉が、記者団に向かって(自衛隊の増強計画に対して)天皇が「旧軍の悪いことは見習わないで、いいところを取り入れてしっかりやってほしい」と忠告したことを漏らしてしまったのである。……なぜ72歳の「象徴」天皇が内密に説明を受けるのか。天皇が「旧軍のいいところ」と述べたことが暴露されたため、田中は増原を更迭せざるを得なくなり、それを知った天皇は、「もう張りぼてにでもならなければ」と嘆いた。(272頁)


次に紹介する天皇ヒロヒトの発言は、よく知られているものであろう。

帰国後、天皇はテレビカメラも入った記者会見を受けた(10月31日)。そのとき一記者がすかさず、外国記者団やフォードに語ったことを踏まえた「適切でない」、わずらわしい質問をした。「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。
 天皇は顔をこわばらせて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。(275頁)


なんという卑劣な男であろうか!

戦争責任を「言葉のアヤ」と言ってのけたのである。

そして原爆投下を「ゆむをえないこと」と言い放ったのである。

戦後の日本は、近代的な価値観を取り入れた。
いや、正確に言うなら、「取り入れたふり」をした。

だから、いつでも時機をうかがって戦前の体制の復古をねらっている。

81年の秋以降、韓国の新聞は日本の教科書記述の批判を開始した。教科書は、日本の中国侵略を「進出」と表記して糊塗し、三一独立運動を「暴動」と呼ぶなど、朝鮮に対する苛酷な植民地支配をあいまいにしていた。(278頁)


侵略戦争をわるいことだったとは、本心からは思っていないのである。

天皇はレーガンの政策に戦争の危険を感じ、中曽根の主導権には賛否両面の気持ちを抱いた。82年10月17日、レーガン政権が日本にシー・レーンの防空と、宗谷海峡封鎖の責任分担を求めたことについて、天皇は「そんなことにしたら戦争の危険があるぢやあないか……(防衛庁)長官に話してくれ」と入江に指示した。(279頁)


ここでも天皇ヒロヒトは、図々しくも政治に介入している。


*****************************************************


以上、これが昭和天皇の本当の姿だったのである。

最後に巻末の解説を見てみよう。

解説を書いているのは、先日紹介した『日本の軍隊』の著者、吉田裕である。

本書の第二の特徴は、日米両政府の政治的思惑が交錯する中で、昭和天皇の戦争責任が封印されてゆく過程を、日米両国の厖大な史料に基づきながら、具体的に解明した点にある。アジア・太平洋戦争の終結直後から、昭和天皇の免責に関しては、日米両国政府は共通の政治的利害を有していたのであり、その結果、東京裁判にみられるように、両者は水面下では連携しながら、天皇の戦争責任の免罪に大きな力を注いだのである。(333頁)


東京裁判は「天皇の戦争責任の免罪」を演出した日米合作のお芝居だった。

これはもはや国際的な「常識」の類いである。

地球は丸い、というのと同じくらいの「常識」である。

ビックスの場合でも、ステレオタイプ化された日本像を拒否して、天皇制に対して批判的な、あるいは非同情的な日本人の言説をきめ細かく紹介しているし、すでに述べたように、彼にとっては、天皇の戦争責任問題の解明という研究課題は、その免責に加担したアメリカ政府の対日政策の批判的再検討という課題と常に一体のものとなっているのである。(335頁)


だから、筆者がアメリカ人だから天皇をこのように描いたのだと思ったひとがいるなら、
そのひとは読解力の欠如した愚鈍なひとである。

ビックスは、アメリカ政府の対日政策も批判しているのである。

さて、最後に、解説者が引用しているある文章を紹介したい。

升味準之輔が『昭和天皇とその時代』(山川出版社、1998年)で
行なっている問題提起のことである。

 だが天皇は、平和主義者だったわけではない。絶対平和は、思想家や宗教家の信条である。帝国主義指導者は、平和を願うとしても、国益の増大と防衛のために、権謀術数を忘れることはない。天皇がその例外であるはずはない。帝国主義指導者の行為基準は、理念的な戦争か平和かではない。この戦争に勝てるか否かである。(337頁)


この文章を引用したあと、吉田裕は次のように述べている。

 日本は、戦争の放棄を規定したパリ不戦条約や中国の主権の尊重を規定した九ヵ国条約の締結国である。その国の元首が、ビックスが強調しているように、これらの条約を「行為基準」としていないのは、確かに大きな問題である。しかし、升味の問題提起を積極的に受けとめるならば、昭和天皇のこうした思考様式が、当時の「帝国主義指導者」の中でどこまで普遍的なものであったのか、あるいは、どこまでが昭和天皇に固有のものであったのか、という問題が検討されなければならないだろう。いわば、「帝国主義指導者」の国際比較ということになるが、この点の解明も今後の大きな課題として残されていることを指摘しておきたい。(337頁)


天皇ヒロヒトは、断じて平和主義者などではない。

彼はまぎれもなく「帝国主義指導者」だったのである。

しかも歴史上稀に見る「無責任」な「帝国主義指導者」だったのである。













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