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zoom RSS 大嶽秀夫『日本型ポピュリズム』(中公新書)

<<   作成日時 : 2008/10/12 02:39   >>

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筆者は、鬱病に苦しむなかでこの本を書いたのだそうだ。

「ポピュリズム」とは何か?

これを説明するのは、かつては、むずかしかった。

学生に「ポピュリズムとは何か」を解説するとき、
以前は「レーガン大統領って知ってるかい?」というところからはじめたものだが、
しかし今はとても簡単だ。

「小泉政権」を取り上げて、「これだ」と言えばいいのだから。

それにしても、あのバカ騒ぎは何だったのだろうか?

1990年代以降現在に至るまで、日本における政治不信には、一定のリズムがある。それは、通奏低音としての政治不信(政党とくに与党と官僚への不信)を背景に、ときおり現れる特定政治家への期待の高まりと、その退潮とが、何度か繰り返されていることである。(i頁)


メディアでよく行なわれる世論調査や街頭アンケートに、
「次の首相は誰になってほしいか?」という質問がある。

小泉純一郎

安倍晋三

麻生太郎

石原慎太郎

こうした名前がアンケートのトップに出て、
高い支持率を背景に彼らが首相や知事になるたびに、
やがて国民的な「期待」は「失望」へと変化していく。

しばらく前の細川護煕も、上記のリストの加えてもいい。

「期待」と「失望」の繰り返し。

もうこんな愚かなことは、繰り返すのはやめよう。

わたしはこれらの政治家を一度たりとも支持したことはなかったし、
期待したいと思ったことも微塵もなかった。

だが、多くの国民は、支持していたのである。

上記の政治家に期待してきたひとたちは、
もうそろそろ学習してほしい。

日本はちっとも民主主義が成熟していないのだということを。

むしろ退行しているといっていいだろう。

政治家の言葉は、空虚そのものである。

自分の責任を棚に上げて、「改革、改革」と叫ぶ与党議員たち。

「1、2、3、ファイヤー!」と叫んだだけで当選してしまった国会議員もいた。

信じられるだろうか?

世界を見回して、ほかの国に、
「1、2、3、ファイヤー!」と叫ぶだけで当選できる国会議員がどこにいるだろうか?

たぶん日本だけであろう。

漫画を読んでいるというだけで人気が出て首相になれる国が、
いったいどこにあるというのだろうか?

たぶん日本だけであろう。

こうしたときにこそ、「ポピュリズム」について考えておく必要がある。

……党内基盤の弱いトップ・リーダー、ないしはトップに立つ野心をもつ政治家は、(自分の所属する政党を含む)政党や官庁を敵に仕立てて、改革の姿勢を演出するのが今日日本政治の常態となっている。(iii頁)


「敵」を仕立てて、それと闘っているイメージを作る。

これが、ポピュリストの典型的な手法である。

ところで、本書には、
小沢一郎や小泉純一郎や加藤紘一に関する考察がある。

見てみよう。

まずは小沢一郎について。

彼の「戦略」とはどのようなものだったのだろうか?

小沢戦略なるものは、@わずかな有権者の支持で野党第一党の地位を維持し、「平和勢力」を日本政治の中枢に温存している日本社会党を解体し、Aそれに代えて二つの中央集権的な保守政党を構築し、それによって改革に反対する下からの圧力を遮蔽する構造を作り上げることであった。(7頁)


彼の戦略は、見事に実を結ぼうとしている。

選挙制度を強引に変えてしまってからというもの、
日本は自民党と民主党という保守政党しかほぼ選択肢がなくなってしまった。

……彼の構想は、自らが主導する新保守主義的な政党と旧来の「大きい政府」を目指す自民党的政党との二大政党制を想定するものであったと考えられる……。(7頁)


ところが、小泉政権が「小さな政府」路線を実践してしまった。

そこで民主党は「格差社会」を問題視するようになったのだが、
もともと小沢一郎は「小さな政府」論者だったのである。

さらに意外なのは、加藤紘一だ。

彼は現在、自民党内で「保守本流」を名乗っている。

穏健な保守といってもいい。

しかし、その加藤紘一も、じつは「小さな政府」論者だった。

加藤は、「この本で私がとくに強調しているのは『大きな政府』から『小さい政府』への転換だ」と明言している。(39頁)


ただし、筆者はここで「大きな政府」について、書くべきことを書いていない。

この本を読むと、
まるで自民党は「大きな政府」論に立っていたかのような印象を与える。

これは明らかに事実に反する。

こういう大事なところを解説してくれないと困る。

なお、加藤は、初当選のころ、社会福祉問題にとくに関心をもち、社会労働委員会に所属したという経歴をもつ。……また、小泉も厚生大臣を経験することで、福祉には少なからぬ関心をもつようになった政治家である。……日本のネオ・リベラル改革の担い手たちが元来は福祉政策に強い関心を抱き、その充実を主張していた政治家であったという事実は、興味深い。(42頁)


ここでいう「ネオ・リベラル」というのは、
「小さな政府」論のことを指している。

次に、小泉純一郎について。

靖国神社参拝や自衛隊の海外派兵を強行した小泉は、
いかにも「タカ派」の政治家であるかのようなイメージである。

ゴリゴリのウルトラ右翼のような態度をとった。

事実、総裁選の直前、直後には、小泉は、憲法改正、集団的自衛権の再検討といった争点を取り上げている。国内のマスコミや中国などには、この「タカ派的主張」に過敏に反応する動きもあった。しかし、これは小泉にとってはあくまで付け焼き刃であり、保守系、新保守系自民党議員へのリップサービスとみるべきものである。(91頁)


どういうことか?

じつは、もともとは「タカ派」的な政治家ではなかったのである。

外交・防衛政策についての過去の言動においても、小泉がタカ派的主張を掲げたことはない。それどころか、たとえば、1990年10月、湾岸危機の折、自民党の政調審議会で、小泉は自衛隊の海外派遣に批判的な立場から、外務官僚に厳しい質問を行っている。さらに、93年5月、カンボジアPKOにおいて文民警察官が殺傷された事件の際、「PKO活動では汗を流すが、血を流してもいいというはずではなかった」と、撤退論を強く主張した。……小泉はその後さらに、当時の連立与党であった自民、社会、さきがけの有志とともに、「国連常任理事国入りを考える会」を設立し、自ら会長となった。当時は、外務省が旗を振って常任理事国入りを果たそうとしていた時期で、これを阻止するのがこの会の目的であった。(91−92頁)


自衛隊の海外派兵にもともと批判的で、
日本の国連常任理事国入りにも批判的だった。

なるほど、その後の小泉純一郎の姿とはあまりに異なる。

また、首相就任直後、山崎幹事長が防衛庁の省昇格のための法案を(おそらくは参院選をにらんで)通常国会に提出しようとしたとき、小泉は「あまりタカ派政権と見られたくない」として、その提出に消極的な姿勢を示した。さらに、政策協定を結んで小泉支持に回り、それを梃子に幹事長(あるいは政調会長)になれると期待した亀井〔静香〕は、その期待を見事に裏切られた。亀井派との協定に含まれたタカ派的政策も同時に退けられた。このプロセスには、小泉のマキャベリズムすら感じられる。(93頁)


マキャベリズムというのは、
目的のためには手段を選ばず、という意味である。

マキャベリズムは、イタリアの外交官マキャべリに由来する言葉だが、
マキャべリがマキャべリストだったかどうかはまた別問題である。

……農水相になった武部勤は、総裁選で小泉批判の急先鋒であった。(95頁)


政治家というのは、本当にコロコロ態度を変えるものである。

この武部勤は、その後、小泉純一郎の一番の応援団になる。

そして小泉チルドレンの世話役になる。

このように見てみると、日本の政治家には政策の一貫性はまるでない。

政治哲学がない、といってもよい。

さて、話をアメリカに移そう。

アメリカのポピュリズムは、どのような特徴を持っているのだろうか?

アメリカのポピュリストといえば、やはりレーガンであろう。

……合衆国のポピュリズムの実態は、下からの運動という色彩が濃厚……。……ただ、時代を下るにつれ、右派政治家(しばしば権力者)によって、この伝統が悪用され、マスメディアによる上からの大衆動員として、登場してくるようになった。ジョゼフ・マッカーシーやロナルド・レーガンは最近の代表例である。(112頁)


マッカーシーとレーガン。

いずれも大悪党である。

レーガン一家は、「理想的な家庭」を政治の世界では演出していたが、実は妻のナンシー・レーガンは子供たちに対して児童虐待を繰り返していた。(100頁)


こういうことは、よく覚えておいた方がよい。

「家庭」の重要性を強調する政治家の家で、児童虐待が行なわれていたのだ。

「道徳」の重要性を強調する牧師が、セクハラで訴えられる事件もいくつもあった。

そういえば、かつてのアメリカ映画に、
同性愛を嫌悪していたひとが同性愛に引き込まれてしまう、
という作品があった。

では、ポピュリズムの特徴は何か?

……政治を利害対立の調整の場としてではなく、善悪の対立というモラリズムの観点から、しかもドラマとしてみるという特徴を共有する。そして、そこには常に、人民の道義性を体現・象徴し、「悪」「敵」に対する「道徳的戦い」、聖戦のリーダーとなるヒーローが登場する。(112頁)


本来、政治とは、利害対立を調整する場である。

国内にはさまざまな利害の対立があるものだからだ。

ところが、ポピュリストは、政治を「善悪の戦い」にすり替えてしまう。

そして、国内の利害対立や階級対立を隠蔽してしまう。

レーガンはソ連を「悪の帝国」と呼んだ。

「悪」と闘う自分は「善」であると、容易に偽装できるわけだ。

アメリカ史の伝統たるポピュリズムのレトリックには、その中核に、政治を「権力者(the powerful)」「金持ち(the wealthy)」と「権力をもたない者(the powerless)」「普通の人・庶民(ordinary people)」との、あるいは「利己的なエリート(selfish elite)」と「有徳の人民(virtuous people)」との二元論的対立とみる認識が存在する(これが、単なる宗教運動、社会運動とは異なる、ポピュリズムの政治的性格をなす)。(114頁)


ポピュリズムは、政治を単純化する。

そういえば、小泉純一郎も、
自分の政策に反対するものは「抵抗勢力」だと切り捨てた。

小泉が送り込んだ「刺客」と「抵抗勢力」の対立という、
きわめて「分かりやすい図式」が作られた。

そして国民はこれに簡単に乗った。

すなわち、ポピュリズムとは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」の二元論を前提として、リーダーが、「普通の人々(ordinary people)」の一員であることを強調する(自らをpeopleにアイデンティファイする)と同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし「敵」に向かって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。それは、社会運動を組織するのではなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の一つである。(119頁)


劇場型政治スタイルは、まさにポピュリズムそのものである。

「小泉劇場」とは、ポピュリズムそのものだったのである。

ヨーロッパにもポピュリズムはある。

各国で台頭しているネオ・ナチなどの極右である。

ヨーロッパの極右政党たるネオ・ポピュリズムの多くは、人種問題やナショナリズムなどを争点とする単一争点政党であるが、いくつかの国では政治腐敗を主たる争点として、政党や政治家に対する批判によって支持調達を展開している。この場合も、「普通の人」に対する「エリート」「腐敗した政治階級」の対立として政治を描いている。(119頁)


ポピュリズムに陥らないための方法は、ひとつある。

わたしたちが成熟した民主主義社会を構築することである。

そのためにも、わたしたち自身が「自立・自律した市民」になる必要がある。












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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
麻生さんの事については、もう少し勉強されてはいかがですか?
呆れて物がいえません!
通りすがり
2009/10/08 21:52
◆通りすがりさま

え? これだけ麻生のひどさが暴露されたというのに、まだ麻生を支持しているひとがいたのですか? 書いてくださった言葉を、そっくりそのままあなたにお返ししたいと思います。

普段生活をしていて、麻生を支持しているひとに出会うことはまずありません。でも、ネット上にはまだいらっしゃるようですね。

どうぞお大事になさってください。

言いたいことがあるのなら、きちんとおっしゃってみてくださいね。
影丸
2009/10/08 23:01

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