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zoom RSS 麻生博之・熊野純彦編『悪と暴力の倫理学』(ナカニシヤ出版)

<<   作成日時 : 2008/10/18 14:36   >>

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この本のなかで新鮮な印象を受けたのは、2つの論文である。

どちらも、身近な出来事から出発している。


◆〈家族〉と暴力(田村公江)

いきなりだが、私は犬がけっこう好きなほうだ。けれどリード(犬を散歩させるときの引き綱)をつけていない犬は怖い。1人で道を歩いていてそういう1人(?)歩きの犬に出会ったら、極力回避する。やむをえずすれ違わなければならない場合には、努めて視線を合わさないように、びくびくしながら平気を装って歩く。もしも世の中にリードをつけていない犬があふれていたら、私は犬恐怖のために外出不能になるだろう。(192頁)


冒頭このように書きはじめられるこの論文は、ここから家族間の暴力に目を向ける。

これと同じ恐怖を私は、男性が不機嫌そうにしていたり、怒ったりどなったりしているときに感じる。(193頁)


このような女性の恐怖感を、男たちが想像することは、とても重要なことだ。

しばしば男たちは、女たちの前で「怒り」を表現する。
「怒っている自分」を女に見せることで、「強い自分」を演出してみせる。

ずいぶん前のことだが、車を運転していた青年が、
ガードマンのおじさんに食ってかかっているところを目撃したことがある。

明らかに弱そうなガードマンに向かって、青者は怒鳴り散らしていた。

ふと助手席を見てみると、女性が同乗していた。

この場合、いきがった青年はまちがいなく、
助手席の女性に「怒っている自分」を見せているのである。

「怒り」は対象に純粋に向けられているわけではない。

ちっぽけで幼稚な見栄は、男のつまらないマッチョ性を表している。

だから、このような文章を男たちが読むことが重要なのである。

公道で人を殴ったり蹴ったりしたら、それは暴行罪、傷害罪に相当する犯罪と見なされる。しかし家庭で夫が妻を、親が子どもを殴ったり蹴ったりしたとしても、「それなりの訳があるのだろう」、「一時的には険悪になっても、他人同士ではなく家族なんだから、いずれうまくいくだろう」「しつけのためなら当然だ」などの受け取り方をされて、第三者は介入しないのが原則とされてきた。(194頁)


「夫婦喧嘩は犬も食わない」などと言われてきた。

親子の場合はどうか。「しつけのためには(多少の)体罰が(ときには)必要である」という考え方が今でも根強く支持されているが、それは本当に正しいのだろうか。体罰肯定論でよく聞かれるのは、「愛情を込めてたたくのならよい。親が真剣に子どものためを思ってくれることを子どもは分かるはず」「怒りに任せるのではなく、冷静さを保ってたたくのならよい」などの主張である。(195頁)


自分の暴力行為をこのように正当化するひとは、いる、いる。

うじゃうじゃいる。

しかし、実際の親子の場面に即して考えると、子どもへの愛情や冷静さを保っていられるなら、何も体罰という方法に頼らなくても、別の方法で子どもを導くことができるのではないだろうか。体罰にいたってしまうのは、しつけがうまくいかなくなって親が自制心を失ってしまうときなのではないかと思う。(195頁)


愛情があれば暴力が許されるというとき、
本当に愛情があるのかどうかは暴力をふるう本人が決めるのだから、
暴力をふるわれる側はただそれを受け入れるしかなくなってしまう。

冷静に体罰を執行しなければならないという考え方において重要視されているのは、しつけではなく実は親の権威なのではないだろうか。(195頁)


まったくそのとおりなのだが、
ここで筆者はさらにこう言うべきだった。

暴力をふるう側は、それによって暴力の欲望を満たしているのだ、と。

ストレス発散のために暴力をふるっているのだ、と。

筆者はそのことに懐疑的なのかもしれないが、実際そうである。

わたしもまだ体罰容認の残る時代環境のなかで育ったため、
さまざまな大人たちから暴力をふるわれた経験が何度もある。

しかし断言しておくが、暴力をふるわれてよかったと思ったことは一度もない。

ちなみに、暴力についてもっと深く考えたいひとは、
ソレル、ベンヤミン、アレントなどの暴力論を読んでみてほしい。

この論文はこのあと、
家族間における「暴力」が「問題」にされるようになった歴史をたどり、
どうして児童虐待が母親たちによって行なわれてしまうのかを考察する。

児童虐待の半数以上が母親によるものだと言われているからだ。

以前このブログでも紹介したバダンテールの『母性という神話』を導きの糸として、
母親による暴力の深層に迫ろうとしている。


◆生殖医療技術における「暴力」(小林亜津子)

この論文も、個人的な体験から書きはじめられる。

最近、ある学生からこんな相談を受けた。彼女の友人(22歳)が不妊手術を受けたところ、3胎妊娠になってしまったという。嫁ぎ先の両親は「3人とも生んだらいいじゃないか」と全員生むことを望んでいたが、本人は、「3人も生んだり、育てたりする自信はない」し、「育児は1人の子に専念したい」から、「減数手術」をうけたいと考えていた。その意志を義理の両親に伝えてみたところ、「人殺し!」とののしられたという。彼女はひどくショックを受けたが、どうしても3人生む決心がつかないため、結局、1人に「減数」して出産したそうである。出産後も、「人殺し」の言葉に思い悩む彼女の気持ちを、少しでも楽にしてあげられるように、何か彼女の決断を正当化できるような言葉や学問的な概念はないか、といった相談であった。(214頁)


ここから筆者は、「減数手術」とは何かについて、考察を進めていく。

「減数手術」について、説明しておこう。

「減数手術」とは、不妊治療によって「多胎妊娠」したときに行なわれるものである。

排卵が起こりにくいために妊娠しづらい女性の場合、「治療」として排卵誘発剤が用いられる。普通はクロミフェン(クロミッド)が用いられるが、なかには、ヒュメゴン(HMG、ヒト更年期性腺刺激ホルモン)などの強い副作用を持つ薬剤が用いられることもある。ヒュメゴンは強力な排卵誘発剤で、卵巣が過剰に反応し、同時に複数(多数)の排卵を促すことがある(人によっては10個から20個近くの排卵が起こることもある)。……排卵された卵子の数が多ければ、複数の卵子が受精して多胎が起こりやすいことは言うまでもない。(217頁)


なかには「9胎」妊娠のケースまであるという。

そこで、お腹の胎児の数を減らす手術が行なわれる。
これが「減数手術」である。

では、どのような方法で行なわれるのだろうか?

……妊娠初期(10週位)に、一部の胎児に塩化カリウム(KCLと表記される)を注入し心停止させるという方法をとっている。「塩化カリウム」は、安楽死の際の致死薬としても用いられる薬剤であり、即効性があって心臓まひを引き起こす作用を持つ。超音波診断装置のモニター画面で胎児の位置を確認しながら、そのまま胎児の心臓に針を刺し、薬液を注入する。医師が聴診器で胎児の心音が停止するのを確認して、手術は終了する。(220頁)


生々しくてショッキングである。

ここで問題になってくるのは、「減数手術」そのものだ。
というのも、母体保護法で認められた方法によっていないからである。

それだけでなく、「生命の選別」も問題になってくる。

どの胎児を「減数手術」の対象にするかを決めなければならない。

男の子がほしいひとは、男の子だけを残すことができる。
障害のない子がほしいひとは、障害のある子を取り除くことができる。

わざと多胎妊娠させておいて、
そのなかから「好み」の生命を選ぶということまでできてしまう。

こうして「生命の選別」が可能になってしまうのだ。

問題はそれだけではない。

筆者が挙げているケースでは、誰がわるいのだろうか?

「減数手術」を選んでしまった「嫁」だろうか?

「3人とも生めばいい」と言った「義理の両親」は、
「嫁」に対して、とにかく子どもを生むことばかりを期待していた。

だからこそ、「嫁」は22歳という若さで不妊治療をしなければならかった。

とすると、早く子どもを生むように追いつめたこの「義理の両親」にも、
決して罪がないとは言えない。

さらには、「減数手術」を可能にする生殖医療技術も「加害者」になる。

現在の「暴力」のあり方を考えるうえで、重大なテーマだと思う。












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