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zoom RSS 中井久夫『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)

<<   作成日時 : 2008/09/24 03:01   >>

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著名な精神科医による論文・エッセイ・対話集である。

とてもおもしろい本である。

「記憶」のメカニズムについては分析が物足りなかったが、
「記憶」のカテゴリーについては興味深く読むことができた。

鷲田清一との対話も掲載されている。

どうでもいいことだが、ひとこと言っておこう。

右派・ナショナリストたちの幼児的な思想は、精神医学には何の役にも立たない。
愛国心だってそうだ。

彼らはこういう本が本当に読めないだろう。

ざまあみろ。

彼らは、精神医学に貢献できない。

逆に彼らは精神医学にとって研究対象であり、患者である。

いろんな興味深いことが書かれているので、断片的に引用したい。

鬱病では、「いちばん得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらいんだ」……。(10頁)


なるほど。

自分に置き換えても容易にそのつらさは想像できる。

自分のもっとも得意な能力がやられてしまったら、
それは相当につらいだろう。

次に痴呆について。

痴呆が、転居の際のような記憶の一時的殺到によって格段に進むことはもっと重視してよい。一般に、老いた自分が耐えられないような強烈な現実に直面した時に急速に痴呆が顕在化して、「痴呆への避難」が起こったのではないかと疑いたくなる事例に遭遇する。(42頁)


気分転換によいと思って老人を引越しさせてしまうと、
かえって症状が悪化してしまうこともあるということか。

「引越し」は、ひとに相当なストレスを与える出来事のようだ。

ある老人性痴呆患者の事例である。

陸軍の将官の夫人であった90歳の女性である。やはり、火の始末が問題になった。会ってみると、なかなかしっかりした女性であって、頑固さに周囲が困っていることが多いのがほんとうの問題らしかった。往診した私は、当てずっぽうに、陸軍の将官らしい顔を鉛筆で描いた。彼女は、「もっとあごが張っていた。髭は、そういうのでななくちょび髭だった。眼はつりあがっているほうでしたよ……」と訂正した。そのつど、私は消しゴムで絵を修正した。ついに「あ、そっくり」というものができあがった。それから、彼女は、旧満州国での栄華な生活、夫の仕事、そして引き揚げの冒険をくわしく具体的に語った。そして、「今までのことを忘れろ、忘れろ、とずっと言われてきたのですよ。それで一生懸命に忘れよう、忘れようとしてきて、やっと忘れられてきたのですよ。今になって忘れっぽいとか何とか言われてもねぇ」と述懐した。(42−43頁)


記憶という現象の不思議なところである。

……ステッキをゆるくもてば、ステッキは路の凹凸を反映し、固く握ればステッキは身体の動きに従ってそれを反映する。ステッキは主体に属することもあり、対象に属することもあるというわけだ。(57頁)


「属する」という表現は、まだ人間とステッキを分離した表現にも感じられるが、
「身体」は皮膚の外側まで延びるという恰好の事例であろう。

体験の連続性の成立と受容は母親役の人との接触による触覚の連続性(とその肯定性)から来るのであろうか。幼児期に柔らかな布との接触を経験しないチンパンジーが成体になったときに性行為ができないという有名な実験を想起したい。「ネグレクト」が重大なトラウマであるのは、体験の連続性の成立を障害することにあるのではないだろうか。(70頁)


ネグレクトは、言うまでもなく児童虐待のひとつである。

近年は、育児や介護の場面で「触れる」ということが重視されている。

英国の作家E・M・フォスターは89歳のときに次のように語ったという。「年をとると記憶は1枚の画に近づく」……と。
 ……年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は1枚のピクチュア(絵)になるということだ。(76頁)


そういえば、わたしも最近は自分の記憶を「クロノロジー」としては捉えなくなっている。
年をとったということか。

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。毒物中毒者だったヒトラーを戦争神経者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(88頁)


この指摘も重要であろう。

そしてわたしたちは、
ここにオウム真理教教祖の麻原彰晃も加えるべきかもしれない。

え? どうしてかって?

分からないひとは、藤原新也の本を読んでほしい。
以前わたしがここで紹介した本である。

なお、1990年代には動物愛護運動の高揚と高額の損害賠償問題の頻発とを背景に動物精神医学の研究が急速に進歩して、ほとんどすべての神経症と心身症とがペットをはじめとする動物にみられること、かつ、その大多数が虐待を原因とすることを示し、動物精神療法が次第に体系化されるようになった。(94頁)


獣医精神医学というのは、はじめて聞いた。

たしかにそういう分野も重要になってくるのだろう。

PTSDは社会的差別感を生まない唯一の病名……。(95頁)


これはさり気なく書かれていた部分なのだが、
言われてみてハッと思った。

そういえば、そうかもしれない。

頭痛や腹痛の場合は、その部位と特異的な関係のあることが少なくないのではないか。頭痛では暴力が、腹痛では「性」との関連がありうる。(106頁)


これもハッとさせられた部分なのだが、
本当にそうなのか、これから気にして考えてみよう。

次は、筆者が統合失調症であろうと予想している患者の事例である。

一卵性双生児のもう一方は早く統合失調症になっています。お父さんが小学生のときに亡くなられたあと、当時は社会保障がなくお母さんが借金をされました。借金取りが家の中に入り込んで食事をしたり泊まったり、いいようにされてしまいました。つまり、家庭が彼らに踏みにじられたのですが、お母さんはなすことなく、はいはいと言うとおりにして、それに耐えている状況でした。兄弟姉妹が7−8人ぐらいいたのですがどんどん出ていって、最後の双子の末っ子だけが残りました。6年ぐらい耐えて14歳になったとき、一番上のお兄さんが社会人になって初めて家に戻ってきて、秩序を回復し、母と2人の弟を引きとって、一家を救ったということです。1人はその地方の伝統的な精神病院に入院したのですが、もう1人は地元の高校を新聞配達しながら卒業して首都圏に就職しました。まもなく同僚が彼にポルノ写真を見せました。それが一つの発病の契機になりました。女性がなんてかわいそうなんだろう、いたましくてたまらないということです。彼の感性のほうがまともなんですが、彼は考え込み、傷つきます。つき合い始めていた女性とも遠ざかります。発病前段階は特に傷つきやすいところがあるのです。外傷性症状は語られません。言えないのです。1年ぐらいかけて彼との信頼関係ができてから、子ども時代の苦しい状況を私に語ったのですが、「十数年前の過去であるのに、まるでビニールの包装を破ったかのように、昨日のことのように語る」と、この患者のカルテに書いています。私が32−33歳の駆け出しのころです。(128頁)


時間をかけていくことで、明らかになることもあるのである。

最近は、何でも成果主義、成果主義、だからなあ。

竹中平蔵には分からないのだろうなあ。

ポリオの研究が非常に進んだのは、ルーズベルト大統領がポリオだったからです。アルツハイマー病の研究が進んだのもレーガンのアルツハイマー病発症と関係があるかもしれません。(131頁)


関連性はきっとあるにちがいない。

ところで、レーガン家では、
大統領の妻ナンシーが子どもを虐待していたという。

知らなかった。

第一次大戦のときにオーストリアのある中尉が戦争神経症を起こしたのですが、そのころの戦争神経症の治療は高圧の弱い電気をかける極めて不愉快なものや、全く光の入らない部屋に閉じこめて「自分はひきょう者で、これから勇気を出して戦場へ行く」と言うまでここから出さないなどというタカ派的治療でした。フロイトはそれに対して電気をかける必要はなく精神分析で治療できるとしました。(135頁)


筆者がここで残酷な行為を「タカ派的」と呼んでいることに注意しよう。

政治家・教育者・親たちのなかにも、
子どもに威圧や暴力を加えれば問題は解決すると思っているひとが多い。

どうにかならないものだろうか。

我々は人が1人殺されると大騒ぎしますが、戦争の場合は敵を殺すということは正しいことになります。敵のダメージを大にすることが善で、逃げること・自分の生命を保存することは悪なのです。……つまり戦争は、愛国心などのトレーニングで超自我を変えてしまうことです。……実際に戦争に行って敵兵の群に対したときには最初は相手を狙って撃たないそうです。お互いでたらめに撃ち、そのうちたまたま当たって自分の仲間が殺されると途端に相手を狙って打つようになると聞いたことがあります。
 どんなベテランの兵士でも40−50日経つと「殺されてもどうでもいいからやめたい」と言って武器を投げ捨てる戦闘消耗という現象があります。人間が自己激励によって無理をする限界でしょう。……ベトナム戦争の時、アメリカがヘリコプターで2週間ごとにサイゴンに連れ戻して酒池肉林を味わせてはまた前線に送り帰していたのは、戦闘消耗を避けるためです。……戦闘消耗は第一次世界大戦でわかったことですが、日本は第一次世界大戦の経験がないため知らされていません。占領地に釘づけになった日本軍の士気は低下し、戦闘消耗を来たして伸びきったゴムのようになったと言われています。(138−139頁)


ここでいう「超自我」というのは、フロイトの重要な概念である。

愛国心は抑圧を生み、強制を伴う、という事例である。

……催眠術で1人ひとり人格を呼び出してやるので大変なのですが、ギネスブック的記録では400何重人格まであるそうです。(141頁)


先日わたしは、40、50もの人格があるという事例に驚いたと記事に書いたが、
多重人格の最高記録は「400」を超えるという。

仰天というほかない。

……19世紀の中頃から人間の痛み、身体の痛みに対する感覚が変わってきた……。19世紀の前半までは下腿の切断などの大手術は無麻酔でやっているけれども、その間じゅうパイプをくゆらしながら談笑し、笑いつつ手術を受けていた……。(145頁)


これも仰天である。

麻酔もかけずに、笑いながら、
自分の足が切断されるのを見ているという光景は、怖い。

次は、あの河合隼雄で有名になった「箱庭」療法である。

非行少年は幼児期に虐待を受けた人が多いことは知られていますね。無人島物語で非常に選択肢が少ない。1つか2つの道具、1つの生活方法ぐらいしか思いつかないのです。また箱庭で「これは宝塚遊園地」「これはディズニーランド」という「イミテーション」は私の経験では非行少年かアルコール症だけです。統合失調症の人はすべてオリジナルです。(157頁)


これはおもしろい。

非行少年とアルコール症のひとは、想像力がきわめて貧しいということか。

最近、私の友人の小児精神科医……は、統合失調症に将来なるリスクの高い子どもは、だいたい3−4歳でわかるといっておられます。(203頁)


え? そうなのか?

いったいどのようなテストで分かるのだろうか?

興味深い話である。

次に、筆者は体験談を語っている部分を見てみよう。

急性統合失調症(急性エピソード性精神病)の患者の事例である。

医師は深夜に駆けつけ、その場で患者に対応する。

筆者のセリフがとても印象的である。

ここで、一番大事なのは、私が医者であると名乗ることです。私が医者であることと、「医者としての判断で君はいま、ちょっと自分がコントロールできない状態にあると判定しますが、どうですか」ということを伝えることですね。これを往診団が伝えなかったために、「夜中に暴力団によって精神病院に入れられた。いつ殺されるかわからない。助けてください」という悲痛な妄想を十数年抱きつづけた患者さんがおられました。「白衣の暴力団」といってました(笑)。さらに、「頭の中が騒がしいですか、いっぺんに考えが押し寄せてきますか、それとも真っ白ですか」ともたずねます。(204頁)


当たり前だが、力でねじ伏せようとはしない。

精神科医のこういうセリフは、わたしにとって、とても勉強になる。

それにしても、「白衣の暴力団」というのはいいなあ。

……私たちは薬だけでなく「希望」も処方しなければならない。(214頁)


こういうセリフが、キザに聞こえないところが、著者のすごいところだ。

次に、患者が自傷他害に走ったときにどうするか、という問題だ。

例えば自分の手首を切るとか、中2階から飛び降りるとか、あるいは行きずりの人を殴るということがあります……。……
 そういう場合、やはり安全な方向にもっていくことが大事でしょうね。……
 ……私が使った手段は、なんと粘土の塊を渡すことでありました。(216頁)


ね、ね、粘土?

ユニークな対処法だ。

案外効果的なのかもしれない。

実際、筆者はこの方法でうまくいったと述べている。

それから、非常に退院要求が強い場合。「すぐに退院させてほしい」という患者さんには、私はこういういい方をします。「ひょっとしたら、君、一生治らないと思ってるんじゃないか?」と。即時退院を要求する人の中には、絶望している人が多いんですね。「どうせ俺は治らない。せめて、ここから出たい」と。そういう人に対してどういうかというと、「僕が君を診ている、この病院が君を診ているということは、君にさじを投げていないということだ」といいますね。そのときはわりと声を励ましていいます。「君がぼくらより先にさじを投げるな」と。(217−218頁)


なるほどなあ。

優れた精神科医ほど、自分の発する言葉に気をつけるものだろう。

そして、場面に合った適切な言葉を持っているものであろう。

これは、ある歯医者さんから勉強したんです。歯医者さんに入ると脅えるような音が向こうのほうからしていまして、ドアを締め切っていて、入った人がなかなか出てこない。ちょっとスリリングですわな。そのまま消えるということはないでしょうけどね(笑)。ところがその歯医者さんは、ドアを開けてよく顔を出すんですよ。そうするとすごく安心するんですね。(221頁)


歯医者の怖いところは、あの音とにおいとドアの向こうが見えないことである。

これは動物の例ですが、ある大学の動物小屋は古めかしくて、そこのマウスに発癌剤を出したら必ず癌になったそうです。当たり前といえば当たり前です。ところが、文部省から予算がついて、動物小屋が新しくなったんです。そうしたら、前と同じ発癌剤を打っても、マウスは全然発癌しないんです。(222頁)


因果関係を解き明かすのが研究者の仕事だが、
これは意外に複雑な要因が絡み合っていることを物語っているのだろう。

いまや何でも遺伝子に原因を求めようとする風潮があるが、
こういう傾向には注意深くあらねばならないだろう。

中国の文化大革命中の何も薬がないときには、下剤だけで治療したそうです。中国の先生にいわせたら、1日5回か7回トイレに行くような激しい下痢をしていたら妄想を考える暇はありません、ということでした(笑)。そんなにひどい下痢にする必要はありませんが、とにかく便が硬いままでは治らない。(228頁)


すごい治療法だなあ。

これを参考にして、
妄想に苦しむひとは下剤を飲んでみてはいかがだろうか?

次に、アスペルガー障害について。

筆者によると、ある統計では有病率が0.9パーセントだそうで、
ということは統合失調症より多いということになる。

実際、患者数はかなり多いだろうと推測している。

 ……23歳の大学生で、実習の教官にナイフをつきつけたものですから、学生相談室からいろいろな病院を経て、とうとう県立病院へ来たのです。……この方の場合は、前の教官の下での実習はものすごくうまくいっていたんです。次の教官は「手抜きだ」というんですね。彼にとってはそうだったんでしょう。それでナイフを抜いた。手抜きだから殺すというのはいくらなんでも程度がつりあっていませんけど、アスペルガー障害の人は程度がわからないようです。
 実際、最初はものすごく薬を盛られてゴロゴロしてたのを、主治医は薬を減らしながら社会のルールを教えていったんです。例えば、人を殺そうと思うことを「僕も悪とは思わない」とその主治医がいってるんですね。「エライことをいうとるなあ」と思ったんですけど、続けて、「思うのは勝手や。なんぼ思うてもかまわん。しかし、実際にしてしもたらゲームオーバーや」と。こういう人は、ゲームの言葉、コンピュータの言葉でしゃべるとよく通じるのだそうですね。「ゲームオーバーや。俺だってよう助けてやらん」と。そしたら「そうですかあ」と半分納得しているような返事をしたそうです。(231頁)


精神科医というのは、本当に大変な仕事だなあ。

彼らはギリギリのところで患者と向き合っているのだ。

わたしはまた別の意味でギリギリのところで「患者」と向き合っている。

私の例では、幼児に陵辱されたのを58歳になってはじめて話した方があります……。(233頁)


これもきわめて重要な指摘であろう。

歴史修正主義者・歴史偽装主義者たちは、
元「慰安婦」たちに対して「戦後45年も経って今さら」などと言い放った。

愚かというより、これはまぎれもない暴力である。

わたしはこういうことを平然と言えるひとを、決して許すことはできない。

40年以上経たないと言えない記憶だってあるのである。

問題解決への選択肢が少ないこと。イメージ化がうまくできないこと。無人島に行ったら何を持ってゆき、何をするかという「無人島物語」では、非行少年や家庭内暴力少年は思いつくものが少ない傾向があることを私は経験している。(315頁)


先ほどの「箱庭」の話に似ている。

米国の神経生理学者ベンジャミン・リベットによれば、人間が自発的行為を実行する時、その意図を意識するのは脳が行動を実行しはじめてから0.5秒後である。脳/身体が先に動きだし、意識は時間を置いてその意図を知る。しかも、意識は自分が身体に行動するように指示したと錯覚している――ということである。
 これが正しいとすれば、「踏み越え」の問題は新しい局面を迎える。私たちは、指を曲げようというような動作をし始めてから意識が、「指を曲げることにするよ」という意図を意識のスクリーンに現前させるというわけだ。1世紀以上前に米国の哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは「悲しいから泣くのではなくて泣くから悲しいのだ」といった。それに近い話である。(324−325頁)


この話をもっと身近な事例でいうと、どうなるか?

日常生活でも、服を手にとってから「あ、私、これが買いたかったのよ」と言う。「この人と友達になろう」と言う時はすでにそうなりつつある。熱烈なキスでは、行為は相手と同時に起こり、唇を合わせてから始めてキスしているおのれを意識するのが普通であろう。おそらく、行為は、互いに相手からのそれこそ意識下の情報をくみ取りあって、「セルフ」のほうが先に動くのであろう。「愛している」という観念が後を追いかけてきても、その時は熱情はいったんヤマを越していて、改めて、深くキスしなおすということになるのであろう。(326頁)


フロイト以降の時代に生きるわたしたちには、
こうした話は違和感なく受けとめることができるだろう。

暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけは統一される……。(343頁)


なぜひとは暴力をふるうのか?

ここにひとつのカギがあるのかもしれない。

一つの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時には集団としてのまとまりが生まれる……。(344頁)


なぜひとはナショナリズムに囚われるのか?

ここにひとつのカギがあるのかもしれない。

長くなったので、もうおしまい。











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