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zoom RSS 鬼頭秀一『自然保護を問いなおす』(ちくま新書)

<<   作成日時 : 2008/09/15 15:20   >>

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環境破壊が深刻化している。すでに手遅れだというひともいる。

これほど深刻化しているというのに、日本人の反応は鈍い。

国際的に見て、情けなくなるほどに、相当に鈍い。

世界的な環境保護の取り組みに対して、
いつも足を引っ張るようなことばかりしているのが日本である。

みっともないったら、ありゃあしない。

ここにも日本人の無責任ぶりが発揮されている。

環境問題から「反日のすすめ」を展開することもできる。

さすが「本日の化石賞」を受賞する国である。

日本国内はここ数年右傾化の度を増してしているが、
自己陶酔型の右翼思想・ナショナリズム・愛国主義などは、
地球環境問題の解決にまったく貢献していない。

このことは、覚えておいてよい。

貢献していないどころか、じつは邪魔しているとさえ言える。

これについては、いずれ書くかもしれない。

さて、この本は、環境保護思想を考えるうえで、とても貴重な本である。

もしかしたら、結構画期的な本かもしれない。

これまでの自然保護思想は、どのような方向に進んできたのか?

まとめてみよう。

自然環境を破壊してきたのは人間のあくなき欲望による開発だった。

自然をもっぱら利用・開発するための資源と見なしてきた。

つまり、「人間中心主義」が、自然を荒廃させてきた。

だから、自然保護の思想は、
「人間中心主義の脱却」「脱人間中心主義」の方向に進んだ。

このようにまとめることができる。

ニュース・キャスターも同じように言いそうである。

だが、コトはそれほど単純ではない。

ここには異なる2種類の考え方があった。

「保全(conservation)」と「保護(preservation)」だ。

一般的には「保全」も「保護」も似たようなものだと思われているかもしれない。

しかし、両者は異なる考え方をしている。

「保全」とは保護や節約を意味している。〈……にそなえた節約〉というように、最終的には人間の将来の消費のために天然資源を保護するということである。それに対して「保存」の方は、〈……からの保護〉を意味している。生物の特定の種や原生自然を損傷や破壊から、人間のためというよりも、むしろ人間の活動を規制しても保護しようという考えである。(40頁)


どちらも自然保護を訴えるのだが、
考え方の違いから対立する場面も生じてくる。

それぞれには、どのような思想的背景のちがいがあるのだろうか?

前者が基盤としている思想は、功利主義である。

後者が基盤としている思想は、ロマン主義である。

そう筆者は分類している。

「保全」と「保護」の考え方が対立する場面は、次のようなケースだ。

19世紀末から今世紀初頭にかけてサンフランシスコ市がヨセミテのヘッチ・ヘッチィ渓谷に、慢性的な水不足を解消するためと、水力発電による電力確保のためのダムを建設することを計画してその建設許可を求めていた。1908年に連邦政府の内務長官がそれを受理して論争が始まった。(48−49頁)


「保全」派は、一定の条件のもとでならダム計画に賛成できるが、
「保存」派は、ダム計画に強く反対することになる。

当初、「保全」派の方が優勢だったそうだ。

しかし、おもしろいのは「保存」派がその後、
独自の理論武装をしていったことである。

「保存」派が発展させていったのは、「法的な当事者適格」という論点だ。

説明しよう。

企業や政府や自治体による開発を中止させようとする場合、
開発反対派は裁判に訴えて計画を中止に追い込もうとすることになる。

問題は、どのような理屈で反対するのか、である。

というのも、多くの場合、裁判で訴えても、
原告にはそもそも訴える資格はありませんよ、
当事者としての適格性がそもそもあなたにはないのですよ、
と言われて訴えが却下されてしまうからである。

「保存」派が注目したのが、この「当事者適格」だった。

自然物に当事者適格を認め、後見人方式という制度を適用することによって、破壊の危機にある当該の自然環境に精通している個人や団体を後見人として立てることにより、その自然環境との何らかの利害関係がなくても、その自然環境そのものの破壊に対して、その自然物の名の下に裁判を起こすことができる。(53頁)


なるほど。

うまいことを考えたものだ。

破壊される地域に住んでいる動物は、「当事者」にほかならない。

それらの動物を「原告」として裁判を行なうというのである。

そして、自然保護の運動をしているひとたちは、
動物の「後見人」として裁判に参加するのである。

日本でも、同様の「自然の権利」訴訟が提訴されたことがあるという(1995年)。

奄美大島における二つのゴルフ場開発に対しての鹿児島県知事の開発許可の取消、無効確認を求めた行政訴訟なのだが、アマミノクロウサギ他三種の野生動物を原告として表示して話題をよんだ。(56頁)


人間でないものを「原告」にするというのは、乱暴な話だ。

そう思うひともいるかもしれない。

しかし、人間でないものは裁判の当事者にできないのか?

いや、そんなことはない。

「法人」などを考えればよい。

「法人」は人間ではないが、「当事者適格」を有している。

こうして、人間以外の生物にも「権利」を認めていこうという動きが広がった。

ここで興味深いのは、人間以外への権利拡張が、動物・植物にはじまって、
なんと岩石、はては宇宙にまで「権利」を広げていこうとするひとがいることだ。

「岩石の権利」。

なんだかシュールである。

そしてこの文脈で新たに登場する考え方がある。

「動物解放論」だ。

動物虐待、乱獲、野生動物の絶滅などが問題になっている現実に対して、
この「動物解放論」は「権利」を人間以外の動物に広げることを主張する。

わたしたちの多くも、動物虐待はよくないことだと認識しているだろう。

しかし、どうしてそれがわるいことなのかを説明することは容易ではない。

「動物解放論」は、その点、分かりやすい。

快や苦を感じる能力は人間だけにあるのではないから、
そうした能力を持つ動物は「権利の主体」になることができる、という。

この考え方に立つならば、
動物虐待がなぜいけないことなのかを説明することはできる。

ただし、この考え方にはきわめて危険な要素もある。

それについては、いずれ書こう。

「保存」派は、このようにして発展していくのだが、
ここで「保存」派が理想化する「手つかずの自然」「原生自然」について見てみたい。

……ロマン主義の時代より以前の西洋社会においても「原生自然=ウィルダネス」は否定的なイメージを持ったものであった。……開拓者たちにとっての「原生自然=ウィルダネス」は、生計を立てるために乗り越えるべき障害であり、生計に対する絶え間ない脅威であったのである。(106−107頁)


なるほど。

「原生自然」は、もともとネガティブなイメージで捉えられていた。

「原生自然」を美化する発想は、昔からあったわけではないのである。

では、いつごろからそうしたイメージが変化したのだろうか?

そのような否定的な評価が覆されるのは、18世紀末に入ってからであった。(107頁)


つまり、近代になってから、イメージが変化したということである。

このことも覚えておいた方がよい。

もともと否定的な概念であった「原生自然=ウィルダネス」概念が、一転してポジティブに転換していった過程には、ロマン主義的な心性が影響を与えていた。また、「原生自然=ウィルダネス」をポジティブにとらえる思想は、その地域に生活し生業を立てて暮らしている人たちの思想ではなく、既に都会化した地域からの旅行客の視点に立つ思想であった。この思想には開拓者の人たちの心性はないし、ましてや先住民の自然との深いかかわりの中の生活も射程に入っていない。(111頁)


ここには、ロマン主義の特徴がよくあらわれている。

しばしばナショナリズムは、ロマン主義と手を結ぶのだが、
それらはともに近代の産物だったのであり、昔からあったわけではないのである。

このように、「保全」と「保存」の対立はつづく。

では、筆者の立場はどこにあるのだろうか?

筆者は、「保存」と「保全」をともに超える視点を提示する。

これまでの自然保護思想は、「自然」と「人間」を分けてきた。

二分法によって発想されてきた。

しかし、そこには大事なものが欠けている、という。

自然は、人間との関係性の中にしか人間に開示されないが、逆に、人間も、それ自体として他から離れて存在しているのではなく、「生活」や「生業」という二つの方向性の違った働きかけの営みの中で、自然によって相互規定された存在なのである。そして、自然は、その人間にとって、やはり「生活」や「生業」という二つの働きかけの営みの中に、人間とのかかわりにおいて全体性を持ったものとして立ち現れているのである。「生業」と「生活」という概念規定をすることは、それゆえ、それ自体で単独で存在しうる人間が、同じようにそれ自体として単独に存在している自然から、自分が都合がいい価値だけを切り取ってくるような人間中心主義とはまったく異なった考え方なのである。(124頁)


欠けていたのは、「関係」という視点である。

人間が、社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクのネットワークの中で、総体としての自然とかかわりつつ、その両者が不可分な人間―自然系の中で、生業を営み、生活を行っている一種の理念型の状態を、「かかわりの全体性」と呼び、「生身」の自然との関係のあり方として定義する。それに対して、その社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクによるネットワークが切断され、自然から一見独立的に想定される人間が、人間から切り離されて認識された「自然」との間で部分的な関係を取り結ぶあり方を、「かかわりの部分性」と称し、「切り身」の自然との関係のあり方として定義したい。(126−127頁)


「かかわりの全体性」と「かかわりの部分性」。

わたしたちの生活は、「全体性」を失っている。

自然とのかかわりは「切り身」の関係になってしまっている。

たとえば、スーパーマーケットで、肉片をパック詰めされたものを買う。

それは、肉の切り身のもととなった動物がどういう形で育てられたのか、そしてどのように屠殺されたのか、そしてまた、いかなる流通の経路を通ってそのマーケットに運ばれたのかという、さまざまな社会的・経済的リンクをまったく知らずに、それゆえに、そうしたリンクからまったく切り離された形でわたしたちのもとに来ている。その肉片の原料となった動物は、どこかで誕生し、飼育され、ある程度の年月を経った後で屠殺され、解体されて肉片になる。そしてその肉片はさまざまな流通を通してわたしたちがそれを買うマーケットに送られ、そこでパック詰めをされて店頭に並べられ、調理されたあとで、最終的にはわたしたちの食卓に出現することになる。そのような、動物の誕生から始まり、肉片がマーケットに送られてそこでパック詰めされるまでのそれぞれの過程の中でのさまざまにへばりついていた社会的・経済的なつながりのもろもろのものをすべて捨象した形で、その肉片は、まさに「切り身」として、わたしたちの食卓に並んでいるのである。(127−128頁)


そして、都会生活を営むわたしたちが、
「手つかずの自然を守れ」と言うのである。

「手つかずの自然」といって日本人が思い浮かべるのは、何だろうか?

きっと「白神山地」や「屋久島」だろう。

ところが、「白神山地」も「屋久島」も、どちらも「手つかずの自然」ではない。

相当に人間の手が入って改造された「自然」なのである。

筆者はここで、「白神山地」の世界遺産登録をめぐる問題を取り上げている。

詳細な考察が書かれているので、ぜひ読んでみていただきたい。

自然保護はどうあるべきなのか?

この本は、そのことを考えるのによい本である。

いま話題の「里山の思想」に近いかもしれない。

自然保護に無関心なひと、大量消費をやめられないひとは、
話にもならないので、おいておくとして、
本書は、どのような思想を持つべきなのかというヒントになるだろう。

なかなかおもしろい本だった。











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鬼頭秀一/福永真弓[編]『環境倫理学』(東京大学出版会)@
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