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zoom RSS 小林敏明『憂鬱な国/憂鬱な暴力』(以文社)・続々

<<   作成日時 : 2008/09/14 06:09   >>

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前回のつづき。

第3章は「無のレトリック」。

ここでは、和辻哲郎にはじまって、河合隼雄、加藤典洋、
さらにはロラン・バルトまでが批判的に検討される。

「無のレトリック」とは、どういうことか?

簡単にまとめると、
「無」こそが日本の特徴だとする言説が天皇制を支えてきた、
天皇を免責することに貢献してきた、
ということだ。

まずは、戦争に携わった連中がいかに無責任だったかを、
思い出してみよう。

周知のように、戦争が終わると同時に真っ先にその戦後の奇妙な状況を批判的に指摘したのは若き丸山真男であった。その奇妙な状況とは、当時の軍の上部から下部に至るまで、戦争の間はあれほど熱心な祖国愛に燃えて戦った連中の大半が、必死に戦争責任を免れようと図ったことである。彼らの理屈は簡単に言えばこういうことである。自分らは自分個人のために戦ったのではない、あくまで「上からの」命令に従って「お国のために」に身を捧げたのである、という理屈である。これによって責任は上へ上へとずらされ、最終的に天皇に帰着する。文字通り「上官の命令は天皇の命令」だったというわけだ。しかしまさにこの最終審級こそ無なのである。無に世俗の責任を負わせることはできない。なぜならそれはあくまで「無」だからである。(101頁)


丸山真男は、このような「無限責任」の状況を「無責任の体系」と呼んだ。

丸山の『日本の思想』(岩波新書)を読んだことのあるひとなら、
おなじみのところであろう。

天皇制があることによって、日本人はことごとく「無責任」になったのである。

どうだろうか?

現在の日本を見ても、
首相をはじめとして閣僚、政治家、官僚、企業経営者……、
どいつもこいつもみんな「無責任」な連中ばかりだ。

「無責任の体系」としての日本は、
基本的に戦前から現在にいたるまで何も変わっていない。

そしてその「無責任」を正当化するのが、「無」のレトリックだという。

「無」のレトリックそのものについては、本書を読んでほしい。

ともあれ、
たとえば書店に行くと、
たいていの書店には「日本文化論」のコーナーがあり、
日本の独自性が何であるかをうだうだと述べている本がたくさんある。

日本の独自性はどこにあるのか?

日本の伝統文化は何か?

日本の「日本らしさ」は何なのか?

日本の独自性を明らかにするために、
数々の物書きたちがネタを必死にかき集めてくる。

それにしても、どうしてそのような本が量産されるのだろうか?

要するに、彼らは日本のナショナル・アイデンティティを欲しているのである。それを得るために、ありとあらゆる自称日本固有の特徴なるものが動員される。無もまたそのひとつにほかならない。この無は、たとえ似ていようとも、もはや仏教で言われる無と同じものではない。それはむしろ、人々にナショナル・アイデンティティを要求する近代の「政治的」な捏造にほかならないからである。(107−108頁)


そうか。

そこにあったのは、ナショナル・アイデンティティの欲望だったのか。

このことを著者が「捏造」と呼んでいることは、きわめて重要である。

次に第4章「憂鬱な国」。

この章は、次のようなユニークな言葉ではじまる。

人は国のことを考え始めると憂鬱になるものらしい。しかし、そうして考えられた国の方もずいぶんと憂鬱になるものだ。(117頁)


現在の日本を憂う。

こんな国ではいけない、このままではいけない、と憂う。

これを「憂国」という。

右派・ナショナリストたちは、左派の歴史観を「自虐史観」と呼んで批判したが、
彼らは「自虐史観」に覆われた日本人の意識はダメだ、ダメだ、ダメだ、
と憂いを漏らしているのだ。

では憂国はどんな国を憂うのか。言うまでもなくそれは「現在の国」である。言い換えれば、この憂いはそれに対する不満であり、批判、反抗である。だが憂国はたんなる現状への不満、批判、反抗ではない。あらゆる形態のメランコリーが過去への拘泥を示しているように、憂国もまた「過去」に拘泥する。しかも憂国の場合その「過去」は「現在」を指弾する基準ないし鏡となって機能する。ここでは「同一の国」という共同幻想ないし連続性への信憑を前提に、現在と過去が価値評価を伴ってひとつの対照をなすのである。(117−118頁)


過去に拘泥しながら、彼らは国を憂う。

このあたりの筆者の精神分析は、じつに明快である。

右派・ナショナリストを、批判の対象とするというより、
精神分析の対象としているのである。

彼らは精神分析の対象に相応しいからである。

……憂国を唱えるためには、どうしてもこの相対の世界を正と負の絶対的コントラストに仕立てる必要がある。それは「憂い」という行為そのものにとっての必須条件だからであり、回想を拠りどころにしない憂いはないからである。こうして絶対的正という価値を帯びた過去が「記憶」という衣装を被って想像的に捏造される。つまり、捏造であるがゆえに理想の鏡ともなりうるような虚構的「過去」の創出である。憂国に謳われる過去が例外なく「美」の仮象を伴うのは、そうしたメカニズムと無縁ではない。(118頁)


おお。

かつて日本には、
「美しい国、日本」というキャッチフレーズを使った首相がいたが、
彼は下痢を理由に辞任した稀有な首相だったのだが、
そしてその彼は「教育改革」に熱心だったのそうだが、
「美しい国」とは、「過去を想像的に捏造」して、
都合のわるい歴史はさっさと隠蔽することだったのか。

おお。

「記憶の捏造」。

過去の美化。

歴史修正主義者=歴史偽装主義者たちのメランコリー。

お気の毒さまである。

では、理想的過去を捏造し、それを鏡にして現在を指弾すれば「憂国」は成立するのか。そこにはまだ決定的な何かが欠けている。「憂国」という概念に生命を吹き込む決定的な要因、それは皮肉にも「死」の観念である。メランコリー者の憂いが最終的に自らの没落や死を恐れているように、憂国は死の観念に彩られていなければならない。だから呼び起こされる過去の理想化も死の美学を伴うのでなければならない。だが、そもそもメランコリー者は自らの死を恐れるのではなかったか。然り。恐れると同時にそれを理想化し、果てはそれを希求するという究極のアンビヴァレンツ、これこそが憂国の実体なのだ。こうして憂国者自身が死の観念に取りつかれるとともに、その憂いの鏡となる国も憂いの対象となる国も、ともに死を基本色調となすことになる。手短に言えば、国が憂鬱になるとはそういうことである。(118−119頁)


ここで著者が取り上げているのは、三島由紀夫である。

決して、最近流行の歴史修正主義者たちではない。

このように見てくると、
三島などの肉体派右翼と歴史修正主義者たちの対比が、
鮮やかに浮かび上がってくる。

ネット右翼や歴史修正主義者たちは、
匿名空間や舞台の脇では威勢よく「ぴーぴー」わめくのだが、
表舞台に立つとお腹が「ぴーぴー」になってしまう程度の右派である。

つまりストレスを与えられると「便」がゆるむ程度の右派である。

だから、ネット右翼や最近の自称右翼たちは「下痢右翼」である。

それに対して、三島のような右翼には、「死」の美学がある。

「死の美学」の側から見れば、
ネット右翼や政治家の右翼的発言など「ちゃち」なお遊びにすぎまい。

だからといって、
「死の美学」を理想化することはできない。

これについても、詳しくは本書を読んでいただきたい。

次は第5章「ナショナリズムにおける感情の問題」。

ここでは、きわめて重要な問題が取り上げられる。

「南京大虐殺の犠牲者、30万人」

この数字をめぐって、日本のナショナリストたちは反撥する。

中国側の誇張だ、そんなに殺してはいない、と反撥する。

日本の閣僚や政治家も「問題発言」を繰り返している。

もはや「恒例行事」のようになってさえいる。

もし中国側が誇張しているというのであれば、
日本側にも数字をとりわけ低く見積もりたいという欲望があるはずだ。

しかも日本側の「誇張」は、加害者による「誇張」である。

このように「反撥」してみせる日本人に決定的に欠けているのは、
大切なひとを殺された中国人の感情に対する「想像力」「配慮」である。

子を殺された母親の怒りは母親であるということだけで充分すぎるほどの根拠をもっている。日本側に頻発する「不用意な発言」は、たいていは中国側からの、半ば制度化されたナショナルな共同感情[と映るもの]に対する反撥に発しているが、これらの発言が「不用意」なのは、まさにその中心に位置する実感およびそれに起因する感情の多層性を見ないことにある。私に言わせれば、これはもはや「不用意」というような偶発的な問題ではなくて、本質的な歴史認識上の「犯罪」である。(183頁)


わたしも、まったくの同感である。

これは「不用意な発言」「問題発言」といって済ませられるものではない。

言葉通りの意味でまさしく「犯罪」である。

他方、日本の良心的な歴史家たちのなかには、
正確な数字を出すために調査・研究をしているひともいる。

そして、わたしたちも、
こうした客観的な研究が進むことによって、
中国と日本の「対立」がいずれ解消されるだろうと期待してしまう。

しかし、客観的で厳密な数字をはじき出す姿勢に問題はないのだろうか?

学者や研究者が極力自らの感情を抑えて、より「客観的」な事実を追究するというのは、ある意味で正しい態度である。だが、それによって犠牲者自身の感情までもが忘却され抑圧されてしまう危険性がないのかということである。(184頁)


虐殺の問題を「数字の問題」に矮小化してしまうこと。

それによって、犠牲者の感情が抑圧され、忘却されてしまうこと。

このこと自体がもつ問題に、わたしたちは無自覚であってはならないだろう。

重要な問題を提起していると言えるだろう。

……ずいぶんと長くなった。

このへんで終わりにしよう。

この本は、知的興奮を存分に味わえるものだが、
きっとまたナショナリストたちには理解できないだろう。

ざまあみろ。

言ってみれば、
患者には自分自身の病状について医学的に理解できないが、
医者にはその病状が原因からメカニズムまですっかり見通せてしまう、
というのに似ている。

この場合、「患者」とは「右派・ナショナリスト」を指す。

ただし、ナショナリストたちに「医者と患者」の比喩は正確さを欠く。

だって「お大事になさってください」と言ってあげられないから。











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