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zoom RSS 小林敏明『憂鬱な国/憂鬱な暴力』(以文社)・続

<<   作成日時 : 2008/09/14 06:07   >>

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前回のつづき。

本書の内容を順にかいつまんで紹介していこう。

今回の記事は相当に長くなると思うのだが、
わたしはこの本をどうしても紹介せずにはいられないのである。

まず、序章は「戦争と罪責意識」。

序章なのに、いきなり本格的かつ濃密な議論が展開される。

思わずぐいぐいと引き込まれる。

ハリウッド映画で言えば、
オープニングからいきなり壮絶なアクションがはじまって、
息をもつかせぬシーンに圧倒される、といったところだ。

さて、戦後の日本人は、戦争責任に向き合ってこなかった。

いまも、アジア諸国や欧米からの批判に向き合おうとしていない。

ひどい場合には「逆ギレ」するという始末だ。

「すぐキレる日本人」。

こうした事態は、端的に「モラルの欠如」といってよい。

「人間としてサイテー!」といってもよい。

では、このモラル意識の欠如は、どのように考えたらよいのか?

なぜ日本人は「罪責意識」を持つことができないのだろうか?

そもそも戦後日本にまともな罪責意識を生み出しうるだけの審級的条件があったのだろうかと。今日の国際的にも評判の悪い日本の歴史修正主義者たちの居直りは基本的にこの審級に対する懐疑に発していることに注意しよう。周知の東京裁判批判がその良い例である。彼らはこの裁判を「正当」とみなそうとしない。なぜか。それは戦争当事者の片方にすぎないものが、そのまま審級の位置にずり上がってしまっているからである。しかし、歴史を振り返ってみればわかるように、あらゆる戦争処理はついこの間まで勝者の側の一方的なイニシアティヴのもとにおこなわれてきた。そしてそれがいったん戦争というものに手を染めてしまった者にいやおうなく課せられる宿命であり帰結であった。(18頁)


たしかに日本の歴史修正主義者=歴史偽装主義者たちは、
国際的にも評判がわるい。

当たり前である。

「ネオ・ナチ」と同じことをしているのだから。

さて、ここで著者が言う「審級」とは、どういう意味だろうか?

審級とはやっかいな概念だが、とりあえず力(権力/暴力)の強さを背景にして自ら「正否」を決定し、さらにそれを当事者に強制する存在とでも言っておこう。(10頁)


ごく簡単に言えば、「判断基準」を提供するもの、といったところだろうか。

「法律」が「審級」の位置を確保しているときは、
「法律」によってわたしたちは「正否」を判断することができる。

その法律の中味は、ふつうは人権思想によって構成されているものである。

「神」を信じているものにとっては、
「神」という「審級」から物事の「善悪」を判断することができる。

なぜ筆者が「審級」という概念を持ち出すのかというと、
それによって「モラル」や「罪責意識」が生まれるからである。

話を戻そう。

右派・ナショナリストたちはしばしば東京裁判を批判する。

なぜか?

彼らが東京裁判を不当だと批判するのは、
裁判を取り仕切る「審級」=「判断」の位置に
戦勝国が居座っているからである。

勝者の側が一方的に敗者を裁く位置に立っている。
これは不当である。
だから、この裁判における判決には正当性がない、というわけだ。

しかし、そもそも日本自身が戦時中、
「正当」な「審級」を放棄していたのではなかったのか?

だが、あえて問いなおすならば、世界を二分した戦争において、いったいどこに「正当」な審級があったというのだろうか。国際連盟という脆弱ながらも最後の拠りどころを自ら放棄してしまったのは日本自身ではなかったか。あの松岡洋右の演説とともに日本は審級なき戦争への道を自ら選んだのではなかったか。(20頁)


まさに筆者の言うとおりである。

当時の日本は、国際法を無視し、外国人たちをなぶり殺しにした。

国際連盟という拠りどころを放棄したのは、ほかならぬ日本だった。

国際連盟という「建前」さえも日本自身がかなぐり捨てたのだった。

日本が国際連盟脱退したことによって、
その後、ヒトラーのドイツ、ムソリーニのイタリアの脱退までをも誘発した。

そして戦争は世界中に拡大していったのだ。

そんな日本に、東京裁判を非難する資格などあろうはずもない。

ここで筆者は、あのヤスパースを引用する。

わたしが先日紹介したのと同じ文脈である。

詳細は本書に直接当たってほしい。

では、戦後の日本はどうだったか?

右派・ナショナリストたちが頭を地面にこすりつけるほど
崇拝しているらしい「天皇」は、どうだったのだろうか?

天皇は、日本人が心の拠りどころ・モラルの拠りどころとするほどの
「審級」の位置に相応しいふるまいをしていたのだろうか?

国民のモラルの源に相応しいふるまいをしていたのだろうか?

もちろんそうではない。

敗戦直後、天皇ヒロヒトは、
真っ先にマッカーサーのもとににじり寄った。
そして命乞いをして、ツーショット写真にちゃっかりおさまったのだった。

いま日本の保守派は、愛国心教育の名のもとで、
戦前の教育思想(「教育勅語」)の復活をねらっている。

靖国神社を中心とした国家神道の思想を国民に注入しようとしている。

現代日本人の「モラル低下」を嘆いてみせている。

では、これらは、現代日本人のモラルの源になりうるのだろうか?

彼らの崇める(国家)神道は、儀礼の型や決まりをもっているだけで、モラルを生みだす審級的教義などもっていない。「教育勅語」のモラルの核をなしていたのは儒教であって、神道ではない。心理力学的にその可能性をもっていた昭和天皇という「父の名」も戦後ついに一度も審級的モデルの役割を果たすことなく文字通り「無責任」に死んでしまった。この問題に関するかぎり、諸宗教はごく少数の自己批判=反逆分子を除けば、表向きの懺悔の振りをしただけで、事なかれ主義よろしく相変わらず古びた仏壇や祭壇の裏に身を隠している。総じて戦後日本の諸宗教は確実に疲弊老化し、今日に至っている……。この間の種々のキッチュで薄っぺらな新興宗教の繁殖は、この行き場のなくなった宗教的エネルギーひいては暴力的エネルギーの、いわば心理的相殺であろう。これでは他国の前に出しても恥ずかしくないような罪責意識などどこにも生まれようがない。(21頁)


もっともな指摘であろう。

右派・ナショナリストたちがいくら必死にモラルの復権を唱えても、
そこには罪責意識も生まれず、ただの薄っぺらな服従しか生まない。

神道以外の他の宗教でも同様である。

では、敗戦直後の日本人にとって、天皇は何の手本にもならなかったとすれば、
ほかには「判断基準」となるような「モデル」はなかったのだろうか?

考えられるのは、アメリカである。

「アメリカ万歳」。

ではアメリカは日本人のお手本になったのだろうか?

ただリアル・ポリティックスの問題として、いささか皮肉なものの言い様をしておけば、私自身の個人的な希望にまったく逆らって、アメリカが戦後の日本人にとっての審級の位置を占める可能性はしばらくあったと思う。だがこの審級候補者はその後朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして湾岸戦争から今度のイラク戦争に至る過程で次々とその権威を失い、いまやついに自ら「ならず者国家」の仲間入りをしてしまったように見える。その意味で日本やドイツの歴史修正主義者がこのアメリカの権威失墜過程と平行して登場してきていることは暗示的である。戦後アメリカはその暴力的な世界戦略において「畏」の演出には精を出してきたが、「敬」の創出にはほとんど力を注いでこなかった。(21−23頁)


なるほど。

これで見えてきた。

右派・ナショナリストたちがしゃしゃり出てきたのは、
自分たちの親分でありご主人さまであった「アメリカ」の権威が
見事に落ちたからだったのだ。

逆に言えば、彼らはそれまで、
アメリカの手先として、忠実な犬として尻尾を振りつづけてきたということだ。

歴史の糸がつながった。

酒井直樹の議論と小林敏明の議論は、この地点でぴったりと出会う。

ここで筆者が述べている「畏」と「敬」とは、「畏敬」のことである。

人々をある権威に従順な存在に仕立てあげるには、
「畏敬」の念を人々の心のなかに作り出さなければならない。

「畏」とともに「敬」も必要なのである。

片方が欠けてしまうと人々を馴致することはできなくなる、という意味だ。

ともあれ、右派・ナショナリストたちの主張に従うと、
罪責意識も生まれないし、健全なモラルも決して育たない。

このことはハッキリした。

次に進もう。

第1章は「戦争とメランコリー」。

第二次世界大戦の直前のことだった。
あのアインシュタインがあのフロイトに手紙を送った。

「人間を戦争から救い出す道があるのかどうか」
「あるとしたら、どうすればよいのか」

これがアインシュタインがフロイトに投げかけた問いであった。

アインシュタインからの問いかけにフロイトはどのように答えたのだろうか?

著者は、このふたりの「知の巨人」の対話を、
ものすごく分かりやすくスリリングに解説してくれている。

これがまためっぽうおもしろい。

興味のあるひとは、ぜひ次の本もあわせて読んでみてほしい。

アインシュタイン/フロイト『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社)

フロイト『人はなぜ戦争をするのか』(光文社古典新訳文庫)

前者では、養老孟司が解説を書いている。

後者では、中山元が解説を書いている。

しかし、どちらも、この小林敏明の解説に比べると、あまりに物足りない。

次の第2章は「負い目あるいは権力意識の発生」である。

ここでは、ニーチェの「ルサンチマン」という概念を検討する。

それから、フーコーの権力概念へと考察をつなげてゆく。

この部分は、初心者にはむずかしいかもしれない。

つづく


















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