フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 大澤真幸『帝国的ナショナリズム』(青土社)

<<   作成日時 : 2008/08/18 18:56   >>

トラックバック 0 / コメント 0

本書は、いくつかの論文を集めて編まれた論文集である。

大著『ナショナリズムの由来』の内容と重なる部分が多い。

おもしろいなあと唸ってしまうところと、
そうかなあと首をかしげてしまうところがある。

大澤真幸の本は、いつもそのような矛盾した感想を誘うところがある。

オウム真理教、少年犯罪、銃乱射事件などについての考察は、
読ませる部分が数多くある。

まずは、オウム真理教について書かれたところから、見てみよう。

オウム真理教に対して、日本国民の多くは、かつて、
猛烈な非難と罵声を浴びせかけた。

早く死刑にしろ、教団を解散させろ、などなど。

オウム信者が転居してくると、
その地域住民と自治体は、信者の受入れを拒否した。

これは明らかに憲法違反である。

それなのに、
テレビ番組はオウム批判で塗り固められ、
信者に対する人権侵害を指摘するようなまともなコメンテーターは皆無であった。

※素朴な疑問なのだが、どうしてワイドショーのコメンテーターって、
 揃いも揃ってみんなあんなに頭がわるいのだろうか?
 先日も、ある弁護士が「日本は単一民族だ」などという暴言を吐いていた。

相手がオウム信者であれば、何をしても構わないという風潮があった。

筆者の大澤真幸は、
もしオウム信者の転入が気に入らないのであれば、
ご自分がほかの地域に転居なさればよろしい、
と指摘している。

あるいは、転居したくないのであれば、
憲法を変えればよいと指摘している。

その場合は、思想・信条の自由や住居移転の自由という、
われわれにとってきわめて重要な「自由」を制限することになる。

しかし、筆者自身の見解は、どちらでもないようだ。

なぜなら、どちらの選択も「オウム」を乗り越えることにはならないからである。

ところで、どうして日本国民は、あれほどオウムを非難したのだろうか?

麻原は、単なる象徴として、教団に対して、実効的な権力を行使することなく、ただ君臨している。ところで、……このようなあり方は、天皇、とりわけ昭和天皇のあり方と酷似していないか。麻原は、大量殺戮の指導者であったとされているが、それならば、昭和天皇も同じである。
 ……われわれは、オウム教団が、かつてのテロに対して、ほとんど謝罪もせず、きちんとした責任もとろうとしていない、と批判してきた。だが、こうした批判は、先の大戦との関係で、近隣アジア諸国が日本に差し向けてきた批判とそっくりである。日本は、戦後、侵略戦争に関して、アジア諸国に謝罪せず、またどのように責任をとればよいかわからずに迷走してきた。そうであるとすれば、オウム教団が、われわれに謝罪できず、事件の責任をとることもできないのも、当然だと考えなくてはなるまい。オウムが今直面している困難は、われわれが、アジア諸国との関係で直面し、乗り越えることができない困難と同じものだからだ。(18頁)


これは、わたしが考えていたことと、まったく同じである。

オウム真理教をのんきに非難していたひとびとは、
しかし日本の戦争責任についてはどこまでも鈍感なひとびとである。

戦争中の行為について、日本はきちんとした責任をまだ果たしていない。

その理由のひとつが、天皇にある。

天皇は、戦争責任を一切果たしていないのだから。

天皇が責任をおわないならば、もはや、誰も責任をおう必要はなくなるからである。
 だから、私の考えでは、戦後日本の最大の不幸は、昭和天皇が自然死してしまったことである。われわれは、われわれ自身の意志によって、天皇を退位させるべきであった。さらに、天皇制を否定すべきであった。それが、戦争責任をとる最小限の条件だったからだ。だが、天皇が自然死してしまったことによって、われわれは、そのチャンスを永遠に失ったのである。(19頁)


この問題は、丸山真男が「無責任体系としての天皇制」として
ずっと前に批判してきたことにつながる問題である。

大澤は述べていないが、当時は天皇を処刑するという道もあった。

実際、国際世論は天皇の処刑を望んでいたようである。

しかしながら、天皇の処刑を他ならぬアメリカが認めなかったのだ。

ともあれ、天皇と麻原の類似性が見えてくれば、
そこから何が分かるのだろうか?

オウムがわれわれにとって脅威なのは、オウムがわれわれと大きく異なるからではなく、逆にわれわれと同じだから、われわれ自身だからである、と。(21頁)


なるほど。

オウム真理教があれほど嫌悪されたのは、
日本国民と大きく異なるからではなく、
日本国民とそっくりだったからなのであった。

この視点は重要である。

あるひとが誰かを厳しく非難している場合、
じつは非難の対象がそのひととそっくりなのだという事実がある。

北朝鮮や中国を情緒的に非難するひとびとをよくよく観察してみると、
まさにこのことが実証されるのではないだろうか?

彼らは、たいてい人権意識のかけらもない連中である。

中国をいつも非難している石原慎太郎が、
ときどき中国共産党や朝鮮労働党の幹部とそっくりに見えてしまうのは、
わたしだけだろうか?

筆者は、オウム批判をするに当たって、
教祖麻原の俗物性を暴露するような方法はじつは有効ではない、
と述べている。

これはなかなかおもしろい指摘である。

詳しくは、本書を読んであたってみてほしい。

次に、人格の同一性や多重人格をめぐる考察に目を移してみよう。

近年、多重人格が増えているらしい。

かつては、ほんの数名の患者の存在しか報告されていなかったのに、
今ではその数が、とりわけアメリカで、激増しているというのだ。

最初、われわれは、ビリー・ミリガンが24個の人格を有すると聞いたときに、たいへん驚いた。二重人格よりも三重人格、三重人格よりも四重人格の方が、はるかに重い病であると信じていたからである。だが、今日、アメリカの多重人格者の平均的な人格数は、16であるといわれている。50、60の人格を有する多重人格者は、珍しくはない。(73頁)


患者数の増加だけではない。

患者が内に持つ人格の数も増えているというのである。

50、60もの人格を有するというのは、端的に言って、驚きである。

これについても、興味のある方は、直接本書を読んでみてほしい。

次に、ある事件を取り上げてみよう。

1999年4月20日に起こったコロンバイン高校銃乱射事件である。

犯人は同校の2人の生徒だった。

校内で銃を乱射して、教師を含む13人の生命を奪った。

犯人もその後自殺したので、死亡者数は15人にのぼった。

じつは、先日発生した秋葉原通り魔事件の報道を見て、
わたしはすぐにこのコロンバイン高校の事件を連想した。

それには理由があるのだが、そのことについては、
また後日あらためて書くかもしれない。

とりあえず今日は、コロンバイン高校の事件について考えてみたい。

この事件のあと、驚くべきことが2つ起こった、と筆者はいう。

ひとつは、事件直後、犠牲者の追悼のために丘の上に作られた十字架は、13本ではなく、15本だったということである。つまり、犯人そのものも、犠牲者として同列にまずは追悼されたのだ。(104頁)


なるほど。

これは日本では考えられないことである。

その後これに対しては批判が起こって、
2本の十字架は後に取り除かれたというのだが、
それでも事件直後に犯人の分の十字架も作られていたというのは、驚きだ。

さらに筆者は、もうひとつの衝撃的なエピソードを紹介している。

やや長い引用になるが、興味深い内容である。

もうひとつの事実は、さらに驚嘆すべきものである。それは、被害者の1人レイチェル・スコットの両親が、事件後約1週間を経たときに、NBCのごく短い、突発的なインタビューに答えたことがらである。レイチェルの葬儀は、犠牲者の中でただ1人、事件が起きた同じ週のうちに執り行われた。彼女の弟の1人も同校の生徒で、殺されはしなかったが、事件の恐怖を味わった。さて、NBCのレポーターは、追悼の集会で偶然に見つけたレイチェルの両親にこう問うた、「あなたがたは、犯人の両親に責任があると思いますか?」と。これに母親は、躊躇なく、「No」、「絶対にNo」と答えたのである。それならばあなたたちは犯人の両親を赦すのですか、というレポーターの畳み掛けるような問いに、母親は「赦します」と答え、さらに犯人その人すらも赦すと答えたのだ。さらに横にいた父親が、「もしレイチェルが生きていれば、彼女こそ、一番最初に犯人を赦しただろう」と付け加えた。父親は、こうも言っていた、「自分たちは、犯人の家族よりは幸福である」と。父親は、その理由として、自分たちは愛し、気遣い、配慮してくれる多くの人にこうして囲まれているが、犯人の両親にはそういう者はなく、彼らはもっと過酷な人生を送らなくてはならないだろう、と述べた。このことを知っている以上、とうてい犯人の両親を責めることはできない、という趣旨のことを父親は述べたのである。
 事件後わずか1週間しか経ていないうちにこれだけのことを言い切ることができる精神には、驚かないわけにはいかない。(105頁)


銃を乱射して13人もの命を奪った少年の親には責任はない、と断言する遺族。

そして、犯人の親だけではなく、犯人自身のことも赦す、と断言する遺族。

日本で見られる反応とのあまりの違いに驚くばかりだ。

日本で凄惨な事件が発生すると、
世論は「犯人を死刑にしろ」という大合唱になるだけだ。

さらには、犯人が少年の場合、親は「世間」に対して謝罪させられ、
場合によっては自殺に追いやられるケースも少なくない。

神戸市児童連続殺傷事件のときも、
犯人の少年の親に対して、テレビの前に出て土下座をしろ、
と迫った有名作家がいた。

そして、そうした反応が人間としてごく「自然な感情」であり、
「当然の反応」であるかのように日本人の多くは思い込んでいる。

しかし、少なくともアメリカではそのような反応は「当たり前」ではない、
ということが分かる。

犯罪に走った少年の親たちが「世間」から厳しく非難される傾向については、
ほかの論者も指摘していることではある。

ともかく、アメリカ人の方が日本人よりもはるかに道徳的に優れている、
などと言いたいわけではもちろんなく、
犯罪に対して示す「世論」の反応は決して「自然」でも「当然」でもない、
ということだけは確認できるはずである。














テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
大澤真幸『帝国的ナショナリズム』(青土社) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる