フォーラム自由幻想

アクセスカウンタ

zoom RSS 最上敏樹『いま平和とは』(岩波新書)

<<   作成日時 : 2008/08/04 19:36   >>

トラックバック 0 / コメント 0

平和を築き上げるために、どのような努力が国際社会で積み重ねられてきたのか?

平和とは何なのか?

戦争がない状態を平和と呼ぶのか?

本書は、こうした問題をとても平易な言葉で明らかにしてくれる。

とってもおすすめ。

最上敏樹の著作のなかでは、いちばん読みやすいのではないか。

2002年、国際刑事裁判所(ICC)が設立された。

これはとても画期的なことであった。

戦争や内戦で虐殺が行なわれたとき、
これまで責任者を処罰する枠組みがほとんどなかった。

大抵の場合、虐殺を命じた責任者は、その国の指導的立場にあるからだ。

しかし、ICCは、まさにそうした加害責任者を裁く場なのである。

ICCが裁くのは、次の三つの犯罪である。

@ 集団殺害罪(ジェノサイド)
A 人道に対する罪
B 侵略の罪


※70頁を参照。

訴追の開始に三つの場合があり、(1)ローマ規程に加入している国(「締約国」といいます)が検察官に付託した場合、(2)国連安保理が検察官に付託した場合、(3)検察官が職権で捜査を開始した場合、となっています。(81−82頁)


訴追が開始されれば、被疑者の身柄が拘束され次第、
裁判が開始されることになる。

ここに書かれている「ローマ規程」とは、
国際刑事裁判所の設立を定めた「規定」を指している。

ローマ規程は、(1)犯罪の舞台となった国か、(2)犯罪をおこなった人間の本国のいずれかが規程の締約国である場合に、裁判所は裁判をおこなうことができる、と定めています。(83頁)


つまり、できるだけ多くの国々がこの枠組みに参加することが、
不正義を裁き、処罰し、正義を回復するために必要なのである。

ところが、この「ローマ規程」に批准していない国がある。

批准していない軍事大国はアメリカだけでなく、中国やロシアも同様……。ちなみに日本もまだ批准していません(2005年末)。(83頁)


アメリカ、中国、ロシア、そして日本。

またもや日本は愚かな行動を採っているのである。

と、「日本はまだ批准していない」と本書には書かれているのだが、
日本はやっと昨年になって批准した。

ただし、日本政府がアメリカなどに加入を積極的に働きかけている様子は見られない。

この点において、まだまだ日本政府は批判されるべきである。

ところで、この本に書かれている内容のうち、
「構造的暴力」の説明がきわめて重要である。

平和とは何か?

戦争さえなければ、それで平和と呼べるのだろうか?

たとえば、多くの人々が極度の貧困にさいなまれ、飢えに苦しんでいるような社会は平和だろうか。また、人種や性による差別が根強く残り、女児の就学率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。(96頁)


いや、そのような社会を平和とは呼べないだろう。

ここで著者は、ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクを紹介する。

彼こそが「構造的暴力」という概念の提唱者だからだ。

では、「構造的暴力」とは、どのような考え方なのだろうか?

……みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と呼ぶべきだという考え方で、その種の「暴力」に《構造的暴力》という名前をつけました。これに対し、人を殴ったり殺したりするような種類の暴力を《直接的暴力》と呼びます。(96頁)


暴力とは、直接的に、物理的に加えられるものばかりではない。

たとえば、一つの社会の中で、一方には巨額の富を占め、飽食している人がいる。もう一方にはいくら働いても十分な収入が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な食糧さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に貧困や飢餓の中に閉じ込められているとしたら――それは社会構造が原因で生み出されている暴力と呼ぶほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を殴りつけて飢えさせているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の被害者はいるという意味での「暴力」なのではないか。(97頁)


社会構造が生み出す「暴力」が、「構造的暴力」なのである。

この構造的暴力論は、……それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という視点を理論化するもの……。……平和とは何より社会正義の問題……。人間が自分の責任によらないことで差別され、排除され、悲しみ、傷つくのは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。(97頁)


ちなみに、このヨハン・ガルトゥングの著作は、すでに邦訳が出ている。

ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』(中央大学出版部)。

ぜひお読みいただきたい。

この「構造的暴力」の考え方は、その後、
「人間の安全保障」という考え方につながっていく。

「人間の安全保障」については、またあらためて書こうと思う。

いま私たちに求められているのは、だから、
このような「構造的暴力」を廃絶するための積極的な戦いなのである。

ところで、もうひとつ著者がとてもおもしろいことを述べている。

世界には、理不尽な悲劇に苦しんでいるひとびとがいる。

構造的暴力によって苦しみを強いられているひとびとがいる。

このようなひとびとの存在を目にしたとき、
私たちはどのような反応を示すだろうか?

「かわいそうなひとたちだ」と言うだろう。

途上国で貧困にあえいでいるひとびとを見て、「かわいそうだ」と言うだろう。

内戦で家族を殺されたひとびとを見て、「かわいそうだ」と言うだろう。

ひどいひとになると、
「だから、日本は平和でよかった」などと言う。

「日本に生まれて、あなたは恵まれているのよ」などと言う。

暴力に苦しむひとびとを、
自分たちが幸福であることを再確認するために利用しているわけだ。

本当に苦しんでいるひとびとのことは放置して。

著者は、「かわいそうだ」というのは「憐れみ」だ、と指摘する。

「憐れみ」は、単なる同情である。

それに対し、「それはいけないことだ」というのが「人権」の思想なのだ、と指摘する。
(136頁参照)

「それはいけないことだ」
「それは許せないことだ」


こう叫びながら、怒りながら、加害者や社会構造と戦うこと。

それこそが「平和」を構築することにほかならない。












テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
最上敏樹『いま平和とは』(岩波新書) フォーラム自由幻想/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる