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zoom RSS 酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社)

<<   作成日時 : 2008/06/26 20:17   >>

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近代化とは、国家の暴力に対して、個人の自由を確保しようする戦いでもあった。

国家権力は、諸個人に向けて暴力をふるう。

だから、国家権力に縛りをはめなければならない。

だから、国家主義は危険きわまりないのである。

しかし、近年、国家権力の暴力を、
市民の側がむしろ期待し歓迎するという事態が起きている。

恐るべき事態である。

国家と諸個人が対抗関係で向き合うのではなく、
国家と諸個人が共犯関係を結ぶのである。

象徴的な事件を紹介しよう。

1992年4月29日の「ロス暴動」だ。

地元の黒人たちはこれを「ロス蜂起」と呼ぶらしい。

この「暴動」はアメリカの歴史でも最大規模のものとなり、5日間で死者55人、1100以上の建築物が炎上か崩壊してしまうという事態にまで拡がりました。そのきっかけは、13ヶ月前のある出来事に遡ります。ロドニー・キングという当時25歳の黒人青年がロス郊外を車でドライヴしていたところ警官に呼び止められ、殴る蹴るの暴行を受けたのです。……ジョージ・ホリデイという配管会社の経営者である白人男性が、この出来事をたまたまビデオで撮影していたのです。さっそく、彼は問題にしてもらおうとロス警察にテープを送りつけ、この出来事を報告しようとしますが、拒絶されます。そこで彼はそのテープを地方テレビ局に送りつけ、やがて全国レベルで報道され、大きな事件へと発展していくわけです。(110−111頁)


日本でも大きく報道されたので、記憶しているひとも多いだろう。

……地に這いつくばったキングは警官たちに取り囲まれ、約81秒のあいだに56回も殴られた、といわれています。パンチ、キック、警棒で延々と暴行され続けます。それに加えて、二度スタンガンでやられている。ほお骨や足首を砕かれ、9箇所の頭蓋骨骨折、眼窩障害を受け、顔を20針縫うという重傷です。(111頁)


何という卑劣な行為だろうか。

アメリカには、まだ黒人差別が歴然と存在していたのだということを、
まざまざと見せつけられた事件だった。

ところが、この事件の裁判で、4人の警察官たちは無罪になってしまった。

そして、この無罪判決が出た4月29日、ロサンゼルスで「暴動」が発生したわけだ。

それにしても、どうして4人の警察官は無罪になったのだろうか。

この裁判の陪審員はすべて白人でした。……警官の弁護団の側は、このビデオを細かく分析しながら、攻撃を受けているのは警察の側であることの証明として用いたのです。ロドニー・キングの身体は、攻撃をやめなかったら、いまにも飛びかかって逆に暴力を加えてくるおそるべき身体として表象されたのです。(111−112頁)


加害者の側が「おそるべき」人間たちだったのではない。

4人の武器を携帯した警察官に、
寄ってたかって繰り返し暴力を加えられた被害者の方が、
「おそるべき身体」として表象されたのだ。

ここには想像的な転倒(imaginary inversion)とでも呼ぶべき動きがあります。(112頁)


このような、被害者の方が「怖い存在」「暴力的な存在」と見なされる
「転倒した錯覚」を筆者は「想像的な転倒」と呼んでいる。

つまり、この裁判では、
被害者であるはずの黒人男性こそが「怖ろしい存在」であることを
陪審員たちに印象づけることに成功した、というわけである。

これは、アメリカだけのことではない。

まさに日本でも見られる事態なのである。

似たような例をあげると、ホームレスについて、よく「一般市民」が怖がっているという表現がなされます。しかしホームレスの人たちの詩や俳句のような表現を読むと、その生活のかなりの部分を恐怖や不安が占めていることがわかります。つまり彼らのほうがより切実に、「一般市民」や若者、警察に生命の危険すら感じながら生き抜かねばならない状況がよくわかります。そして若者や「一般市民」による暴力はよく報道されますが、その逆はほとんど聞いたことはないはずです。少なくともその質量とも、圧倒的に暴力的なのはホームレスに対する「普通の」「マジョリティ」の側でしょう。しかし、にもかかわらずホームレスの方こそ恐怖の対象としてイメージされる。そしてそれによって、「一般市民」による暴力や、行政の有無を言わさぬ、しばしば暴力すら活用した排除が正当化されたり、過小に表象されたりするのです。(113−114頁)


わたしも何度も見たことがある。

行政による「ホームレス」強制排除が行なわれたあと、
「最近、ホームレスが増えて怖かった」
「子どもがいるので、これで安心です」
などとテレビのインタビューに答えている女性たちの姿を。

そのくせ、この善良なる市民の彼ら/彼女らは、
芸人本『ホームレス中学生』を読んで感動してみせたりするのである。

彼ら/彼女らは、アザラシが川に迷い込むと大喜びするのに、
公園でかろうじて生命をつなぎとめているひとびとが
暴力をふるわれ排除されることには、何の疑問も感じない。

ここには、国家権力による暴力と市民(マジョリティ)の共犯関係がある。

きっと、かつてのドイツで、
ユダヤ人の強制排除が行なわれていたときに、
これを黙って見ていたり歓迎していたひとびとも、
このような市民と同じような「顔」をして暴力の行使を歓迎していたのだろう、
と思う。

ここには「マジョリティの攻撃性」あるいは「マジョリティの兇暴性」とでも呼びうるような、一つの典型的な暴力の発現形態があるようにおもわれます。その特性は、……力において優位にあり、暴力を行使する側が、力において劣位にあり、暴力を行使される側に、力の優越と暴力の加害を帰属させてしまう「転倒」です。この転倒こそが人を容易に暴力的にさせてしまう仕掛けなのです。(114頁)


これは、非常に重要な指摘だ。

立場の弱いはずのひとたちに「暴力」のイメージを貼り付ける。

そうすれば、彼らに対して加えられる暴力は「正当化」できる。

アメリカの警察官が「黒人」に加えた暴力。

日本の行政が「ホームレス」に加えた暴力。

そしてマジョリティがこの暴力を容認するという構図。

この構図は、在日外国人にも当てはまる。

多数派の市民に「恐怖」を感じさせるためのネタは、
今やいくらでも供給できる状況である。

外国人、テロ、ピッキング、北朝鮮、BSE、SARS、鳥インフルエンザ、中国の経済力などなど、ぼくたちは今いやというほど恐怖の詰めこみにさらされています。それによって、小さなパニック状態が恒常的に演出されているのです。(129頁)


筆者のいう「想像的な転倒」という概念は、心に刻んでおきたい。















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コメント(2件)

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>立場の弱いはずのひとたちに「暴力」のイメージを貼り付ける。
そうすれば、彼らに対して加えられる暴力は「正当化」できる。

日本は「弱いもの苛め社会」であることが以下の例でもわかります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1421369389

反小市民
2009/12/29 14:08
◆反小市民さま

たくさんのコメントをくださって、ありがとうございます。

「弱いものいじめ」をあちこちでしている日本人のことは、日本人はよく知っているはずなのですよね。それなのに「日本人はすばらしい」「日本人は優秀だ」などと言いたがるひとたちがいる。彼らの神経が理解できません。
影丸
2010/01/02 13:09

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